5組  (菅谷 良子)

 

 此の夏何か文集をとの仰せ生憎文才なくおはづかしゅうございますが少し思い出すまま筆をとらせていただきます。

 私達は昭和十七年主人満23才私19才で見合結婚を致しました。
 当時としては珍らしくもなかったのでしょうが召集令状がまいり八月十五日入隊という事がわかりながら御見合をし結婚を致しました。勿論先方は無事帰えってから改めてとの事でしたが私の両親は散えて是非にと申しよほど本人を気に入り信じていたのでしょうか。末一人娘を嫁がす事に決心しました様で私は両親のすすめるまま八月九日結婚致しました。

 出征后幸運にも三年半後帰還致し二人の娘をもうけ昭和四十五年以後色々苦難と戦い心労の末この世を去り後は兎に角娘伴々助け合って今にちに至って居ります。
 思い返えせば主人は何時も前進急いで走っている感じ「タンク」と仇名があったその通り生涯精一ぱい生き抜いた人。後はお前達頑張ってと云うているのでしょうか。亡くなれば良きところばかり思い出されるもの、それに比べ私は何んと至らなかった事かと悔いる思いで一ばいです。
 人一倍親孝行情深く何ごとにも中途半端に出来ない真面目一徹お侍気質とでもいうのでしょうかそれでいてロマンチスト。お酒は大好物須磨離宮道の私宅のお向いに幼友達がおられ大の親友恋人の如くしばしば神戸のネオンに誘われ楽しく過した日々も多く私は淋しい思をしました夜も多くありました。
 でもそれだけに家庭サービスも良く差し支えのない限り日曜の夕食は外食、日頃出掛けない私にとって此の上もなく楽しみでございました。又春夏には休暇をとり旅行に何から何までお膳立てをして私達はついて行くだけ只すなおに逆らわず「さからうと大変」。お蔭で私は箱入り女房娘達は過保護大きく成長してからでもよく「膝においで」と申し娘は仲々行こうとしませんどこまでも来るまで云いつづけ仕方なく行く仕末。有難迷惑なんでしょう。あまりにも大きな愛に包まれ過ぎ有難さがわからず生前には何不自由なく外風にもあたらず温室で過した如く甘え切ってまいりました。

 突然の死どうして生きていけばよいのかと戸惑いましたが、幸い二人の娘が居り今では段々心も落ちつき常に主人と共に生き、お礼申し何時も親子を守っていてくれます事を信じ毎日を大切に仲良く前むきで強く生き娘もそれぞれ幸になります様祈りつつ、楽しく希望をもって生き抜いて行き度いと存じて居ります。親友塩川様も御他界遊ばされ心淋しく存じますがあちらで主人と仲良く好きなお酒をかわしつつ楽しく過していられる事と存じます。十二月クラブの役員様はじめ皆々様何時までも親しくして下され御友情の程有難く頭の下がる思いでございます。今後共よろしくお願い申し上げます。
 お読み辛いと存じますがお許し下さいませ。

 



卒業25周年記念アルバムより