5組  大上戸幸登

 

 私の病の覚え書きである。私自身も他の人の経験を聞いなのである、この記録がどなたかの参考になれば望外の幸せである。
 私の病気について、誰もそうとは言ってくれないが、私は食道癌であったと心得ている。

 昭和五十四年八月 (年齢六十歳)
 休日は畠に出て草を取り汗を流していた。それが終わると風呂に入って汗を流し、入浴後のビールを飲むのが楽しみであった。今年は妙に暑さを感じる、何所か身体の具合が悪いのかなと思った。或時ビールをガブッと飲んだ時急に食道の下部でつッかえたような感じで激痛を覚えた。暫くで痛みは治ったがそれ以降ガブ飲みは避ける事にした。

 九月
 会杜で会議の際、中食の弁当が出されるが、その際粘度の強い唾液が遡上して来て困った。この現象は月毎にひどくなった。

 十月
 少しづつ食道の狭窄を感じるようになった。姉が胃癌で死んでおり、発覚時には手のつけようがなかった。同じ症状を辿るとすれば、できる限り自分だけの悩みにしよう、誰にも秘密にしておこうと思った。今年一杯頑張れるかなと思った。

 十一月
 下旬頃は狭窄が大分進み食べたものが時折つっかえ始めた。

 十二月
 中食はカケンバをとるようになった。それでも時々、アゲがつっかえたりした。
 食事中つっかえの為度々席を外すようになり終に妻に見つかった。致し方なく食道が悪い、内臓外科の仕事だろうから、何の病院が良いか、かかりつけの医者に相談に行けと言った。
 食物はチーズケーキを主とする。
 二十五日、内科医の所でレントゲン検査、広島市民病院を紹介される。
 二十八日、市民病院畠山部長の診断。即日入院を奨められる。正月を家で過したいと申出正月四日入院と約束す。大晦日ビールを飲む事ができた。

 五十五年一月
 酒ビールを口にするが飲み込む事ができない、二日三日と飲食不能で急に消耗する。
 四日、入院、示後栄養は点滴による。
 一週間位諸検査、中旬以降コバルト照射、計二十回。医者に「原因は酒ですか?」と聞いた所「原因が判っていれば処置の仕方が判るが、判らないのが実情だ」との答であった。
 この頃私は医者任せと観念していたが妻は手術するか否かに悩んでいた様子であった。
 「二月に入ると手術」と言う事に決定し、煙草を止める事で看護婦や妻と争いになる。

 二月
 十日頃に予定していた手術が体調不具合の為に一週間延期となる。
 十八日手術。十時手術室に入り、マスクをかぶされ以後意識不明、手術は五時間半掛り、二度の手術を一度で行い、気づく限りの事は行った、と医者の説明があったとの事。
 気づいたら身体が枠の中に入れられており先づ足を抜出す事に苦労したが、それが妻や妹との争いになった。再び意識不明、目覚めて「何時だ?」と聞くと朝六時であった。酸素テントの中に入っており、機械音が続いており、身体のあちこちからチューブが出ていた。
 ベッド上での用便は一苦労であった、痛みとの闘いはこれ以来深刻なものとなった。
 中でも痰との闘いには悩まされた。「煙草での争いがよく判ったでしょう」と着護婦が言う。コホンと腹に力を入れないと痰は出ないし、コホンとやると、腹の創痕が張裂けるような痛さである。看護婦が傍にいると、すぐに腹に手を当てて呉れるが、妻などはとても間に合わない。
 手術後十日位で身体から出ていたパイプが殆んど外され、便所通いが許されたがこれが一苦労、一本残された鼻からのパイプが悩みであった。喉が痛んで仕方がなかった。手術後二十日位で胃の開通式が行われ、始めてこのパイプが取れた。喉の爽快さと胃の約三ヶ月振りの稼働を祝った。
 後は痛みとの争いである。殊に寝る際の痛み止めの注射を如何に減らして行くかである。
 手術、左頸部約十センチ切開、右背中肩脚骨裏より右乳下迄切開約五十センチ。腹中央部臍上約十五センチ切開、肋骨二本一部切断、胃を胸骨の上に出して食道と連結してある。
 食事。病院食では不足であり、外部からの持込は許可されたが、何分共ヂャスミン茶でうがいする以外は口も舌も約三ヶ月休業の為味を忘れてしまっていた。何を口にしても美味いと思えない。味覚の恢復は徐々に出て呉れたが、肉(牛も豚も)の味は未だに恢復しない。

 三月二十五日退院、其後二週毎に通院

 四月、五月と散歩の訓練に励む。六月梅雨の為痛みが治まらず、通院ブロックを始める。薬量通常の倍であった。八月も雨の為痛み変わらず、九月その儘、十月少し治ったが寒さに向い又痛みに悩まされる。この間脈榑の乱れが出、内科通いを始める。コバルト照射の余波か?

 十二月
 めまいを感じる事数回、部屋に籠る時間が長くストーブの瓦斯中毒かとクリーンヒーターに変える、その後めまいは起らない。
五十六年。医者は経過は順調だと言う、然し痛みはとれない、体重は通常五十八〜六十キロ、手術後五十一キロ、退院後五月四十六キロ、十月四十四キロ、四月四十ニキロとなっている。
 春と共に痛みが軽くなり会社通勤もボツボツと思っていた。所が三月に風邪を引きその優四月に持越して痛みも治まらない。
 気永な療養を覚悟しなければならないのであろうか?
 ヂッと辛抱して痛みの去るのを待つべきか?それともリハビリテーションの努力が必要なのであろうか?医者は「努力も必要だ」と言い、「決して無理にならないように」と言う。
 此の身体一体何の程度使いものになるものやら、今一度会杜勤めが可能なのであろうか?そしてそれは何時頃なのか?又は畑いじりでも、し乍ら暮していく事ができるのかしら?それとも無事何とか生きて家の差配をして行けばよいのか?
 向後の設計、死えの準備をどのように構えたら良いのか、としきりに思い悩む毎日である。