5組  藤田 信正

 

 一昨年十月から十二月にかけて約二ヶ月、欧洲のルクセンブルグ大公国の首都ルクセンブルグに滞在した。家内が長女の二度目の出産を気づかい是非ゆきたいというし、私もたまたま興銀嘱託という気楽な身分だったため家内に同行したわけである。私の訪欧は五回目だが、ルクセンブルグも、長期滞在も始めてだったので、その印象を綴ってみたい。

 長女一家が赴任するまでは、私もよく知らなかったが、ECのベネルックス三国のルックスがそれである。同じ大公園でもモナコやリヒテンシュタインより大きいが、それでも人口四十万、周囲をベルギー、フランス、ドイツにかこまれた、神奈川県ぐらいの面積の小国である。
 娘婿の話だと、周囲の大国に削られて、現在はどこかの国がさらに侵食しようとすると他の国が承知しない、ぎりぎりのところが残ったのだそうだが、どうして欧洲にこれらの大公やその領国が存在するのか、不勉強のせいもあるが、いまだに賄に落ちない。
 独立国といっても、かなりの間ベルギーの属国だったようで、大公を兼ねていたベルギー王の銅像などが残されている。言葉はルクセンブルグ語(ドイツ語の方言らしい)とフランス語、通貨はベルギー・フラン建てで、ベルギー、ルクセンプルグ両国の紙幣、コインが流通している。

 首都ルクセンブルグは国土のフランス側の南端に近いところにある。鉄道の駅からみると、北方に街が伸びているが、その中央が渓谷で区切られており、王宮などのある古い街とは渓谷を越える二つの橋で結ばれている。娘たちが住んでいるアパートは古い街の最北端の住宅街にあり、その先きは直きに樹木で被われた谷間となっていた。要するに、王宮などのある古い街は小高い丘陵の上にあるわけである。
 アパートから王宮付近の繁華街までが十分か十五分、駅まで歩いても二十分か三十分ぐらいのもの、駅を始点とするバスが片方の橋を渡り、ノートル・ダム寺院や王宮の前を通って住宅街に来て、帰りにも三つの橋を渡り、欧洲投資銀行、大蔵省の前を通って駅に戻る環状線になっているので、これで一周すれば概略はわかるという狭い街である。
 流れている河は小川にすぎないが、古い街の前面は無数の銃眼をもつ、切りたった断崖であり、かつて大公の館があったという要塞の跡も残されている。陸のジブラルタルと呼ばれたと案内書に記されており、かつては難攻不落を誇こる要害だったらしい。今からみると、狭い丘陵を守るだけにみえるが、ここに独立の秘密があったのだろうか。

 最近の人口増加はほとんど移民で(ポルトガル人が多い)、ルクセンブルグ人の増加は少なく、いまに稀少民族になると自嘲しているそうである。そのせいか、子供をかわいがる気風が強いと娘がいっていた。こちらの人は、鼻梁の薄い繊細な感じの美女もいるが、概して彫りの深い、肉厚のがっちりした顔をしている。赤坊も彫りが深く、青い眼がギョロリと大きい、おっかないような顔をしているので、日本人の子供は、珍らしいだけでなく、かわゆくみえるらしく、連れ歩いた孫娘はなかなかの人気ものだった。赤坊の服装は赤が男、青が女だそうで、所変われば風俗も変わるものである。
 この国を支えていた製鉄業が衰退したのち活路を外国金融機関の誘致に求め、それが成功してロンドンにつぐ国際金融市場となり、当時で一〇八の銀行が集まっているといわれていた。ほかの特産品は陶器、白ワインぐらいで、郊外をドライブしても、まとまった規模の工場はみられなかった。
 首都のルクセンブルグだけでなく、ほかの小都市にも昔の城や古い教会が残っており、ドイツ国境に近い「小スイス」と呼ばれる地方は美しい森林、渓谷地帯で、多数の遊歩道が整備されていた。しかし、それらは欧洲で珍らしいものでないとし、なによりも、定期直行便がないため(ロンドン、パリ、フランクフルトなどで乗替え)、大規模な観光客の誘致は難かしいようだった。

 家庭では昼にご馳走を喰べ、夜は冷たい料理で簡単にすますそうで、学生たちも昼休みに家に戻るので、気をつけていないと、思いがけないラッシュ・アワーにぶつかってしまう。日曜は繁華街に出てもウインドウ・ショッピングしかできないし、観光地にドライヴしても土産ものも買えない、普段も午後六時すぎに店を開いているのは飲食店、煙草屋(雑誌、文房具、玩具なども扱っている)だけという始末で、欧洲では当り前かも知れないが、私どもにはなんとも不便だった。
 家庭では週一度魚を喰べるそうで、近所の少さいスーパーでも時たま鱈、かれいなどが入荷していた。当初は大量の氷に被われ新鮮だが、どういうわけか氷を補給しないので二、三日経つと売れ残りが情けない姿になっていた。魚を喰べるポルトガル移民が多いため専門の魚屋もあり、週一度だが、かなり多種類の、新鮮な魚が入荷しており、時たま鮪を買うこともできた。手許にメモがないため正確な値段はわからないが、安くはなかったと記憶している。

 牛肉の価格はさすがに安く、日本人向きに薄切りにしてくれる店があるので、すき焼きもできる。ヒレ肉につぐ最上肉で、あぶらは少ないが、まあ喰べられる程度の味だった。ハム、ソーセージの種類は多く試食してみたいほどだったが、概して香辛料が強く、私どもにはあわないそうである。近所の小さいスーパーで切り売りしてくれる普通のハムを喰べていたが、日本の即製ハムと違う本来の味を楽しむことができた。
 家内は人参などに昔の味がすると喜んでいた。ひと通りの野菜はあるが、日本のものより大きく、かたいものが多い。ほーれん草などは、日本では色が悪くならないように短時間でゆであげるのがコツだが、こちらでは、長い時間をかけないとやわらかくならず、それでも形は崩れないし、色も変わらない。かつて、来日したフランス人コックの「ほーれん草は長い時間ぐだぐだとゆでないと本来の味が出ない」という言葉を奇異に思っていたが、どうやらその謎も解けたようである。野菜、果物をみると、日本のものは形が整っていて綺麗だが、加工が過ぎるのか、本来の味を失っているようである。

 ものにより高低の差はあるものの、日常の生活費は日本とあまり変わらないが、高いと思ったのは外食である。勿体ぶらない、手ごろな店で安いオムレツや日変わりの定食をとっても、量はたっぷりあるものの、千円以下ではあがらない。中華料理やイタリー料理でもかなりのお値段だった。日本式に手軽るな昼食と思っても、ほかにはカフエの欧洲風サンドウィッチしか無く、その中間がない。
 中級品がないのは衣料品も同じである。繁華街には娘たちがデパートと呼んでいる店(四、五階建てで食堂もあるが、衣料品中心で商品の種類は少ない)やパリの有名店などが並んでいるが、ほとんど高級品であり、ことに綿製品は割高だった。ほかは極端な安もの専門店があるだけで、中級品に乏しい。
 娘の話だと、ここの人たちは大変財布のひもがかたいそうである。寒い国なので、街頭にたつ宝くじ売りのおばさんも毛皮を着ているが、こうした毛皮は大切に親から子に伝えられるらしい。夜の住宅街で、派手に明かりがついているのは娘たちのところで、ほかは留守かと思われるほど暗い。テレビを見るとき明かりを消すといった、堅実な感覚が身についているようだった。

 午後になると、髪や服装を整えた中高年の女性が繁華街を散歩し、菓子店の喫茶室に屯していた。市立劇場のほか映画館が五軒ほどあるが、まったく娯楽に乏しいところなので(ことに冬期がひどい)、そんなこと以外に時間のつぶしようがないのだろう。
 テレビはルクセンブルグ放送(フランス語)のほかフランス、ドイツから二、三局づつ受信されているが、ニュース、クイズ番組のあと古い映画か米国製テレビ映画といった夜の番組で、日本のように多彩でなく、大騒ぎもしていない。街ではプレイボーイなど多種類の雑誌が売られているが、テレビで女性のヌード姿をみることはなかった。キチンとけじめをつけている感じで、こうしてみると、日本のテレビは変にサーヴィス過剰である。日本のアニメ映画はかなり放映されており、フランス語吹き替えのキャンディ・キャンディが子供たちの人気を集めていた。

 こうして、娘夫妻、孫娘たちと二ヶ月余を過したが、東京、パリなど沢山の人が忙しく動きまわっている大都会のまったく逆で、のんびりした生活だったのが最も強い印象である。強盗、かっぱらい、すりなどの心配はないし、人種差別もなく、人々はゆったりとして親切だった。ほとんど、孫娘の手をひいたり、バギーを押したりしていたから住んでいると思われたのだろうが、郵便配達や近所の人たちは見知らぬ人もボン・ジュールと声をかけてくれたし、再三道も聞かれた。

 まことに静かな、のんびりした小国だが、この国は欧洲投資銀行を誘致したり、古い街に似合わないユーロピアン・センターという高層ビルを建てるなどして、ECとのいろいろな共同機関の招致に努めている。それには、これらの機関があれば、戦争になっても欧洲諸国は攻めてこないだろうという思惑があるという。昭和三十一年に最初の外遊から帰るとき、国際情勢が不安なときだったが、パリのホテルの中年のママから「欧洲は春がよいから今度は春にお出でなさい、でも、その時まで私は生きていられるかしら」と云われて驚いたことがあったが、欧洲の人たちの戦争に対する警戒心、恐怖感は、悲惨な戦争を体験した私どもでも納得できないほど強いようである。

 また、この国の人たちの最大のなやみは、大学がないため若い人たちが国外に出てしまうことだという。この小国に生まれ育ち一生を送る人たちは、静かな、平穏な生活に恵まれるにしても、自分たちの生活をどう考え、広い世界をどうみているのだろうか。欧洲に根強く残っている階級思想が、ここでも秩序を支えているのだろうか。これも、変化の烈しい、忙しい、自由な社会に生きている私どもの理解を超えるものであろう。

 




卒業25周年記念アルバムより