5組  松島 英雄

 

 我々の年代は卒業即軍隊生活、敗戦の荒廃とさんざんな目にあい、案外今日迄生き延びて来たのも何かのえにしと感ぜざるを得ない。

 小生自身は埼玉県大宮に陸軍主計として終戦に会い、一ヶ月余り残務整理をして、陸軍から解放され、昭和二十年十月には帰社し、東京勤務八年後、昭和二十八年から同三十五年迄岡山県玉野市に転勤し、昭和三十五年四月には当社(三井造船)として初のロンドン駐在を命ぜられ、生れて初めて飛行機に乗り途中ストックホルム(商談)経由ロンドンに着任昭和三十七年八月帰国迄の二十年前の思い出に残っていることをつれづれに書き止めます。

 当時ロンドン在留の邦人は旅行者を除ぎ八○○名と称され、日本料理店は一軒もなく、僅かにピカデリーサーカスとレスタースクエアーの間にある中華料理店の地下室にまがいの日本料理を供する店があり、中国人の手による天プラ等が供され、恰々来客で日本料理を食べたいという人があればそこえ案内したものです。

 元旦になれば邦人は大使館に集まり、大使の特典により内地より送られた材料による正月料理を賞味したものです。
 当時は一ポンドが一〇〇八円一ドルが三六〇円の固定相場制であり、シリング、ペンスがポンドと共に英国の通貨単位でありましたが、英国の日用品の価格を円貨に換算するとバカ高かったのを記憶しております。円が一ドル三六〇円にしては漸く強くなり、又ポンドが二・八ドルということ自体が抑々無理な固定相場の時代でした。

 事務所(小生は三井物産ロンドン支店に出向していました)で驚いたことは昼食の時間の長いことと昼でも食事とアルコール飲料を喫することでした。彼等現地人クラークは午後一時頃から三時頃迄食事にかかりますが、現地人には定額の昼食用クーポンが雇傭主費用負担にて支給され、そのクーポンが通用するパブもあり、パブでビターと称する生ビールを一杯(パイント)やりながら、だべるのが彼等の大部分の習慣であり食事は簡単にサンドウイッチか何かをつまんで昼食とします。

 仕事が終る一〇分前位にはタオルを持ってゾロゾロとトイレにゆき顔を洗って帰り仕度を始め、終業時になると一斉に退社します。仕事が後少しでケリが付くからと云って数分残業してケリを付けてから退社しようというような殊勝な心掛けの輩は殆どおりません。
 退社後は一目散にそれこそ地下鉄のエスカレーターをも駈け下りて帰宅する者もいれば、又パブによって友達とダベってから帰宅する者と二派あるようです。

 或る夕方の事、小生はパブで一人の相当酔払った中年の男がもう一杯のビターを中年の売り子の婆さんに頼んだ処、そのお婆さんは貴方は酔っているから貴方にはもう売らぬと断固と断わり続け、とうとうその中年の男はビターを売って貰えずスゴスゴと引上げた光景を見て、何か英国人のよさをかいま見たような気がしました。
 ビターという飲物はビジターにはとても飲めた代物ではないが、彼地に住むとだんだんうまくなりとても他の飲物の比ではなくなり、然も値段は一杯ニシル(ニシリング当時の金で約一〇〇円)ですから英国人が他の飲物より量も多く、飲むのに時間もかかる故好んで飲むのも尤もと思いました。
 他の飲物で英国人が好んで飲むのはジンアンドトニックでウィスキーを飲むのは大抵日本人でした。
 免に角酒と煙草はその産地の風土に合ったものが最も売れるのは日本で清酒が売れ、欧大陸ではワインがもてる所以であろう。

 小生の滞英は僅か二年半で、その間度々パブに一人で通い、時間を過ごしたが、現地人から一度も不愉快な思いをさせられたことの無かったことは幸いでした。
 その外に未だ、子供を現地の学校に入れたこと、初夏の若芽に映える花の美しさ、新聞、ミュジアム、ゴルフのこと等につき種々の思い出、赤ゲット談等ありますが、紙面の関係で省略致します。

 小生の滞英前に同級の韮沢兄、森田兄が夫々滞欧されたので、今更物識り振ったことに駄筆を振うのもどうかと気遅れがしますが、四〇年の中途二〇年前に何をしていたかを思い出して紙面を汚した次第です。
 皆さん精々元気で余生を過ごされんことを切望してやめにします。