5組  前田  南

 

 母校、神戸二中は、反骨精神が伝統である。この精神が、一橋進学を決定づけた。郎ち、「大学」の徽章をつけない唯一の官立大学。パリのコンテストで世界一となった、と先輩である従兄からきかされていた、マーキュリーヘの憧れが追い打ちをかけたかも知れない。
 その証拠に、さてゼミナールを選ぶときが来て、どれといって勉強したい科目を見出せなかったのである。モタモタしている間に何処も満員、唯一のアキ、河合ゼミに落付いたが、プロゼミ一年間の、無機化学の分析実験が、在学中で最も楽しい時間であったとは、何とも皮肉な感じがする。

 就職はしたものの、月余にして入営。さて復員して会社に挨拶に行くと、まるで待っていましたとばかり、解雇辞令が手渡された。潜水艦の潜望鏡や、爆撃機の照準具を作っていた会社は、終戦と共に、企業規模を十分の一に縮少しても、なお収支相償わない状態で、戦時中勤めた人を解雇して、復員者を受入れては、仕事にならない、というわけである。
 岳父が心配して、自分が役員を退いたばかりの会社に話してくれた。その会社で、絶大な信頼を得ていた岳父の口ききとて、一も二もなく採用はしてくれたものの、工業用計器の需要がある時代ではなく、パン焼器や鍋釜に細々と生命を永らえる状況であったからコマ切れの給料に糊口を癒やすばかりであった。
 食うに困って、労働組合が結成された。本社と三工場の組合を合わせて、連合会とし、総同盟(今の総評)全国金属に加盟した。私は本社の組合長に選ばれ、連合会の参謀格であると共に、総同盟への連絡係でもあった。
 当時の全金労組の親玉は、先日亡くなった荒畑寒村、担当窓口は、後の総評議長、高野実で、いろいろと親切に指導してくれた。
 そのうち、連合会で、ストをやるかやらないかの決定をせまられる状況が発生した。本社の組合長として組合大会を招集し、状況を説明して投票に移った。その結果、スト反対票は二票であった。その一票が、大会でスト反対を主張した中年の古参女性であることは明らかである。そして、あとの一票は、組合長である、私自身の票であった。
 にも拘わらず、四名の組合員が社長室に出向いて、自分はストに反対であったが、組合長の扇動でストが可決された、と報告した。この程度のことは、何処にでもあることだ。
 結局、連合会の執行部は、ストをしないことに結論を見出したが、それから月余の後、私は、かの四人の中の一人と共に社長の自宅に招かれて、「君達二人は、会社の将来を担ってもらう人材だ」とのご宣託をうけた。これを聞いて、私は退職の決心をした。

 元社長とその家族が、生活に困っているというので、兼松の人達が私に入社を勧誘して来た。大正末期、四十八歳で五十万円の退職金をもらって、後進に道を譲った父は、二十年にわたって悠々自適していたが、全力投入の満鉄の株式が烏有に帰して、既に売るものもなく、最後に電話迄処分しなければならない状況にあったのである。
 商社は不向きと断わると、子会社の毛紡績にといわれて、親孝行とばかり誘いにのった。親のいた会社に勤めれば、よくて「親の七光」、悪ければ「不肖の子」、何れにしても浮ばれない宿命をもつ。
 十二年の親孝行は、父の死によって終了した。経理の人材を求められて、その世話をしている間に、労働組合が結成されそうだというので、急遽、私自身が就職することになった。十二月クラブ員が、二代目社長であり、クラスメートである社長の義弟が常務をしている会社である。大企業から中小企業への転進に、一寸した不安と落魄の感があったが、これで空年もなく、余分な神経を使わず気楽に勤められるであろうことが、転職の決め手となった。

 会社幹部も、従業員も、労働組合がどの様なものか知らない中で、結成委員達は、実に段取りよく事を運んで、遂に結成大会を迎えることとなった。
 結成委員の中に、社会党のバッジをつけた社歴の浅い工員がいて、会社側との話合いは殆んど彼と私の対話に終始したが、そのわかりのよいのには、全く驚く程であった。そして彼は、第一期の書記長に選ばれた。というよりも、組合結成準備から、執行部の人選迄総て彼の手によって行われていたのである。そして彼の思い通りに進んだのは、彼が一切表に立たず、彼の作ったシナリオによって、配役が発言し、彼は発言者を応援するかの様に反対者を押える立場をとったからである。
 さて、いよいよボーナス交渉の頃になると、書記長は子分の副組合長を伴って、私の自宅にやって来た。そしてスケジュールと金額の打合せが出来上ったのである。従って、団体交渉は筋書通りに、而も適当な紆余曲折を経て妥結点に到達した。それは全く見事な出来映えであった。勿論、会社側も一般組合員も、裏にあるものは知る由もない。
 妥結の直後、私は二人を呼んで労を労った。その時、この書記長が、社会党員であると共に、共産党のオルグの会合にも出る、警察のスパイである事を知らされた。そして、私が組合交渉のポストを去る迄、彼は陰になり、日向になって、労使関係の調整に尽してくれた。その結果、賃金も向上し、社業も発展したのである。

 三年を経て、私は採算のよくない部門の営業を担当することになった。これで、労組の相手をするという、入社の目的は終ったこととなる。而も、この部門も、一年余で売上げが三倍にもなるという成果を得たので、次の転職の時期が到来したと判断した。
 兼松を辞めた頃、父の縁故者から是非と乞われていたのである。然し、一旦入社した以上、少く共五年は勤めるべきだと考えて、回答を保留して来たが、ここで、一年後に招請に応じる旨を伝えた。
 不振の部門が一気に伸張したのは、私自身の力によるものではない。それ迄人事を担当していたから、新たに最高のスタッフを網を引いた結果であろう。他に強力な二人の協力者を得たからである。私は偶々機会を得て、この二人の人物に、一年後職を辞する予定であることを告げ、後事を依頼した。

 それから半年経って退職迄あと半年となったある日、そろそろ退職願を出すべきかをその協力者に相談した。然し、三ヶ月前が適当、今は未だ早過ぎる、という彼の意見に従った。ところが、その直後、大事件が発生し、退職勧告をうける羽目となったのである。
 事件の発端は、私の全く関知しない処であった。社長の父親である会長が、私が会社を乗っ取る策謀をしていると思い込んで、老いの一徹を発揮した。そして、どうせ転職の時期が半年早まった丈と、平静な私の態度に、怒りは高じるばかり、結局、親子の罵詈ざんぼうの中で、退職の挨拶をすることとなった。
 この事を聞いて、一人の組合幹部がやって来て、「組合が全力をあげて応援するから、何としてもやめないで頑張ってほしい」との申し入れを受けた。この言葉を聞いて、初めて「乗っ取り」の意味を理解することができた。若し、私が何かを指示したら、組合ー全従業員ーが動くとなると、オーナーにとって、これ以上恐ろしいことはない。
 「君達の気持は、本当に有難い。然し私が辞めなければならないのは、君達のその気持なのだよ」
 九十人に及ぶ自前の出席者を得て、私の送別会は延々と続き、数多くの人々が、マイクロフォンを取り合う様に、餞のことばを尽してくれた。そして餞別品の名簿の中に、小さい子供をかかえて靴も買えず、下駄で通勤する寡婦が名を連ねているのを発見して、私の感激はその極に達したのである。
 この見送りを背に上京したにも拘わらず、新しい職場には仕事らしい仕事がなく、全く退屈な毎日が続く。あまりの退屈に、専ら自分の勉強を開始すると共に、副業をすることを決心した。正直いって、卒業以来始めての読書らしい読書の季節であった。仕事仕事に追われて、読書を忘れていたのである。

 かつて、資金を担当していた頃、銀行の係長級であった人達が、既に支店長になっていた。この人達の紹介を得て、最初の顧問先ができ、経営コンサルタントなる仕事が始まった。ところが二社、三社ともなると、執務時間中に席をあけるのが目立つ様になる。止むを得ず役員の辞任を申し出ると、幸い非常勤にしてもらえたので、細々と食べて行けることとなった。大学高校の子供三人をかかえて、夫を東京に送り出した留守を守る、妻の苦労は大変だったろうと思うと、全く乱暴な転進である。

 さて独立して知ったことは、今迄会社で生き辞引といわれていた知識が、大海の一葉に過ぎない、ということであった。そして駆け出しのコンサルタントが、失敗に失敗を重ね乍ら、無官のまま十五年に垂んとしているのは、人これを「奇蹟」と評する。然し、四柱推命学によると、全くの適職の結果だということになる。亡父は、四十八歳にして引退し、息子の私は、同じ四十八歳にして、ようやく「適職」を得たのである。
 適職と運、経営者についても適性と運、経営コンサルタントにとって、この判定が第一義とわかったのは、茲二年来のこと、これに端を発して、もう一度転進することになるかも知れない。