5組  横山健之輔

 

 私は徒然草という本が好きである。小学校から中学校に上った時、国語の副読本に此の徒然草が用いられていて、題箋のついた和綴のその小冊子を手にした時は、何だかちょっと、偉くなったような心のときめきを感じたものだ。やっと子供の世界から大人の世界へ入れた様な一種のよろこびでもあった。やたらに第何段と百を越す段数が文章の頭についていたり、「徒然」を何故つれづれと読むのだなど、と怪訝に思った幼稚さもあったが。
 しかし何と云っても魅力を感じたのは、そして、今もその魅力は変らないのだが、書き出しである。「つれづれなるままに日ぐらし硯に向ひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづれば、あやしうこそもの狂ほしけれ」。
 かねてより、私はこの条りだけでも徒然草は価値あるのではないかとさえ考える様になった。何度繰返し読み返してみても、何とも名状しがたい味があるのである。浮び上ってくる、全く気ままな、一個の中世自由人の生活場面のイメージもさることながら、「あやしうこそもの狂ほしけれ」という日本語の何という美しく豊かな表現力。と、読む度にいつも感歎している。「つれづれなるまゝ」も「そこはかとなく」も同様。一体これを外国語の英語やフランス語に訳せるものかと自ら反問してみる。そして現代日本語にもだ。
 「日ぐらし」という言葉もいい。また「つれづれなるまゝに日ぐらし硯に向いて」とは何とうらやましくも素晴らしい境涯だ。いまの生活と余りにも違いがあり過ぎるではないか。

 偖、卒業四十周年記念文集に何か書けと云われたものの、なかなか此の「あやしうこそもの狂ほしけれ」の状態になってくれない。それはつまり、つれづれなるままに日ぐらし机に向いての如き生活状況もなければ、よしなしごとを書きつづるという様な作業も此処のところ余りしていないせいでもある。

 そこで、仁和寺の僧達が美しい少年を誘い出して遊び歩こうとたくらみ、他愛もなく少年の喜びそうな風流な弁当箱を紅葉の下に隠くして置いて、びっくりさせて一緒にはしゃぎ廻ろうとか、他人の家の垣根の内の柑子の実を気にするとか、そんな優雅でのどかで、愉しく面白い内容のものは書けそうもないから、唯、たんたんと四十余年前の学生時代の想い出のくさぐさを書きつらねてみることにする。その内やはり誰にも共通の事柄は寮の生活、旧師旧友の追憶であり、ひとそれぞれには出会った書物や、親しい友との旅の話などになろうか。

 私は東京の下町育ちで、しかも下町の一番端れの築地の、そのまた大川を隔てた対岸月島に家があり、月島第一小学校から本所江東橋の三中に入った。家内は築地の明石町小学校出である。大川端沿いの明石町河岸は、河風も涼しく、歩くと石垣の間から舟虫や小蟹がぞろぞろ這い、昔の外人居留地の面影を留めた洋館などが広い敷地にぽつぽつ散在し、垣根の外までコスモスの花が咲きこぼれていた。大川には筏が浮んでいて、霊岸島から出る大島通いの汽船が通ると、寄る波でちゃぷちゃぷ音をたてて上下に動く。市営の渡船が、川下から、鬨渡し、月島渡し、佃の渡しと三つあり、鬨の方は早くから有名な撥ネ揚橋に変じて、失くなってしまった。月島渡しの船は明石町河岸の端に着く、後日、治作という料亭が出来てからは、その横に着いた。屋根のある四角な桟橋を鉄鎖で吊っている巨きな混固土の錘りが水面にざぶざぶと浮き沈みしているのが無気味であったと家内は未だに云う。晴れた日の夕焼けどきには茜色の西空に薄紫色の富士山の全容がくっきりと此の渡し船の上からよく見えた。

 東京の下町は、官吏や軍人の住む山之手中心の東京から見ると商人や職人や芸人のたむろするローカル地帯であり、生粋の江戸ッ子も住んでいる、いわば東京のいなかであり、一地方に過ぎない。そのいなかである下町から小平迄は通学も不便であるという理由から新設の一橋寮へ入れて貰った。一中、四中出身の山之手の連中は殆んど通学生だった。あの荒涼たる武蔵野の面影の残る強烈な自然の中の生活は、全国から集った地方の俊秀生との接触と共に極めて新鮮であった。深夜、寮窓から見上げる夜空一面の星屑は見あきなかった。

 私は予科三年間の内、一年生と三年生との二年間を寮で過し、二年生の時は中央線沿線のあちこちに下宿した。寮に居ても土曜日、日曜日は下町の川の水の匂や街の灯がふるさとのそれの如くなつかしく、市内に出る。家から近かった歌舞伎座、東劇、新橋演舞場、築地小劇場などは中学時代からのお馴染でよく通った。旧劇も新劇も芝居というものは皆、面白く、築地小劇場で「夜の宿」、小山内薫の「息子」などを見ては感動し、級会誌に愛蘭土の劇作家のシングかダンセイニか何れかの一幕物を訳載した。予科祭の時、井手口一夫君や故杉浦一平君、小林悦生君等を動員して、.私が舞台監督気取りで、武者小路実篤の「恐ろしい男」を上演した。そのあと井手口君は「恐ろ」という渾名を貰った。舞台装置の背景を描いてくれたのは酒井嚢君だったと思う。歌舞伎で拭は六代目が油の乗り切っていた頃で、.殊にその踊「所作事」は何れも名品で、「保名物狂」「鏡獅子」「うかれ坊主」「娘道成寺」「藤娘」など、かかればその都度、学生の小遣銭で大抵は大向と云う立見席からの一幕見で必ず欠かさずひとりで観に行った。宝塚の天津乙女が同じ頃六代目を自分の踊りの手本として、この天井桟敷の立見席へ観に来ていたらしい。私の妹が築地木挽町の花柳流の家元先代寿輔さんの処へ踊を習いに行っていたこともあり、日舞は観る機会も多く眼も肥えて来た。川端康成が一時この日舞の世界に傾倒した気持もよく解った。私は時代物よりは、菊五郎や羽左衛門等による生世話物を好み、江戸末期の一寸頽廃的だが、凄艶で、哀愁的で、あくどい一面もある、庶民のちまたの世紀末的な舞台に酔った。幕明きや幕切れの、あの劇場の空間に響き亘る柝の音や、囃子の連れ三味線の一斎に鳴りはじめる時は、芝居というのは愉しいものだと、しびれる様な興奮を覚えた。歌舞伎が江戸の絵なら新派は明治の絵だ。当時河合、喜多村章太郎在り、八重子の明治一代女、浜町河岸の箱屋殺し、降る雪を浴びて傘を片手に、タタッとよろめいて、すっと立つ姿、いまは幻の絵だ。東劇では左団次や猿之助の一座がよく出た。岡本綺堂の新作物が盛んに上演された時代で、左団次と松蔦とのコンビで演る綺堂脚本の舞台は見応えがあった。

 「鳥辺山心中」の松蔦などは、その色気といおうか、その不思議な魅力は、滅多そこらの女には見られないふん囲気が漂い、まさに絶品であった。小村雪岱の舞台装置と共に、その道行の仕草や、身体を振った時の腰の辺りの色っぼさは未だに眼底に焼きついて忘れられないものだ。こんな女形はもう出ないのではないか。もう一度見たい。

 本との出会いについて少し。予科三の頃、寮から外出した時、新宿の書店紀伊国屋だったかで、新刊書で『天の夕顔』と題する中篇小説を店頭で見掛け、つい二、三日前に出たばかりですとのことだが、題名も変っているなあと、何気なくパラパラと繰って見て、読んでみようと中河与一のその薄い本を買って寮に持ち帰り、読みはじめたら、何とも云い様のない強烈な感動裡に一気に読了した。感動の遺り場がなくて、寮内の文学好きの友人で、話せる相手、例えば早川、井手口、倉垣、木島などの諸君に「これ読んでみろ」とすすめて廻ったが、はじめは題名から童話の本かと思われた此の書がなんと忽ち寮内に広まり、短時日の間に爆発的に浸透して行ったことが反響から判った。此の書はその後世間でも評判となり版を何回も重ねて大変なベストセラーとなった。小平での火付役は私であった。志賀直哉の『暗夜行路』にも一時とりつかれたことがある。

 その頃の私の坐右の書はマルセル・プルーストの『失はれたる時を索めて』があり、淀野隆三訳の「スワン家の方に」や、五来達訳、三笠書房版全集(未完)などを、ところかまわず開いた箇処から読みふけった。堀辰雄などの作品は、プルーストを読んだ眼から見ると何だか、その亜流みたいで物足らなく、むしろ梶井基次郎などに強くひかれた。詩では中原中也の詩集『山羊の歌』が出た頃で、その大型の新刊本を倉垣君が持っていたのを借りて、その中の「汚れちまった悲しみに」などのいくつかを、和紙の手帳に写し取ったのが、いつか出て来た。谷崎潤一郎は中学時代から好きで、『春琴抄』の作者として、現代では日本最高の文学者だと私はひとりで決めていた。その他には泉鏡花の一部の作品を愉しんでいた。読書や友との旅の話など書いたら際限なくそれだけで一冊の書物が出来るだろうから、旅の話は忘れ難い二、三にとどめる。

 早川泰正君と、予科修了の春休みに、伊豆の大島の月下の波浮の港を夜中の十二時に出航して、甲板に横はり満天の星を眺めながら、距離では眼と鼻の先の式根島へ渡った。途中あちこちの島へ積荷の揚げ降しをしながら、翌日の昼の十二時にやっと到着して、此の全島椿で覆われた小島に滞在した。白いあご髭が地面に届きそうな駐在さんが一人いて船を出迎え上陸、吉野屋という民宿へ泊ったが、かつて三好達治と、木村五郎という彫刻家が来ていたことがあるとか。
 私達の他には京都から来ていた日本画家が一人同宿で、毎日海へ釣りに行っては、釣った魚を八畳敷一ばい位の軸を広げて丹念に一尾づつ描き加えていた。私達の帰る船で此の画家は件の長い軸を肩にかついで一年振りに京都の自宅へ帰るのであった。海岸の二百尺もある岩壁をジグザグに降りた波打際の磯に温泉が湧いていて、潮の満ち具合で流れ込む海水で良い湯加減になった。岩間の湯溜りにつかるのである。中天の月の光が取り囲む白い岩壁に照り映えて神秘的な一種の妖気が漂い、のびのびと発育の良い、すらりとした村の娘達の裸身のシルエットが、眼前の岩から岩へ跳び交う。夢幻の世界であった。宿では、小石を敷いた大きな囲炉裏に裏山で焼いた椿の太い切炭を惜し気もなく焚いてくれ、伊勢えびや、生いかを食べさせてくれた。日本にも、そして東京の近くの海上にまだこんな土地があったのかと、都会であくせくしている人達が気の毒になる様な思いだった。
 此の島に八日間程いた。早川君と二人の旅であった。

 倉垣君とは或る秋に、三国峠を越えた越後湯沢へ行った。全くトンネルを抜けると雪はまだなかったが、秋だというのに表日本の明るさに比べ何となく暗く空が低く感じた。湯沢は街道に沿った長い家並の部落で、その端の方の山の中腹の中屋という旅館に二人で泊った。一夕座興に招んだ三味線を弾く年増の芸妓が、翌日からは、宿の近くの共同風呂に入浴に来る。帰りにちょっと寄っては花代なしに遊んでゆくのであった。こちらが学生であったからだろう。変ったことに太棹の三味線を持っていた。五、六日も逗留したろうか、その間私が扁桃腺を脹らしたことがあるが、如何にも雪国の女らしく色が抜ける様に白く、頬が林檎の様に赤く、眼がばっちりと大きく黒ダイヤの様に澄んだ、名は忘れたが宿の女中さんが割箸の先に綿をからませ、何処から買って来たかルゴール丁幾を浸して、私の口を大きく開かせ、ああっという間に手際よく塗ってくれた。それでぴたりと治った。
 帰京する日は雨がざあざあ降っていたが、発車間際の湯沢駅のプラットフォームに傘をさした例の年増の芸者が馳けつけ、私達の汽車の窓の前に立った。見ると斜めに吹き降りの雨の中を、あの長い街道を急いで来たのであろう、ぐしょ濡れで、たくし上げた着物の下から重く垂れている緋縮緬の長襦袢の裾までぐっしょりで、しゃがんで、その赤い襦袢を絞っていたが、その手の白い指からたらたらと雨水が滴り落ちた。
 そしてかの芸者は汽車の窓からお土産だと云って、栗を一杯詰めた竹の籠を差し出したのである。私達二人は感激の余り思わず眼と眼を合せたのみで言葉も出ない程だった。裏日本の温い女性達にめぐり合った倉垣君との旅であった。

 他に酒井嚢君と信州小諸の韮沢君を訪ねたあと、天幕を背負って夏の菅平や野尻湖、妙高を歩き志賀高原丸沼の畔で行き暮れて、木樵小舎で白樺の薪を燃やし乍ら暖をとり一夜を明したことなど、旅の憶い出はつきない。

 次に私達の旧師の回想を書いてみたい。

 杉山令吉先生。
 予科に入学した時、書道の時間があり意外であったが、後になってみると、これは貴重な授業で、先生に直接手を執って教をうけた私達は倖せであったと思う。杉山先生は三郊と号され、当時既に八十歳を超えて居られると聞いたが、高士の風があり、いつも落着いた光沢のある、青藍色の羽二重の羽織と対の和服で、仙台平の袴を着用されりゅうとした姿で教室に入って来られて教壇にすっとお立ちになる。机の列の間を静かに歩まれる時、しゃり、しゃりとかすかなきぬずれの音が耳に入り、ほのかな薫香が漂う。学習する手本は王義之の流れを汲む江戸期の名筆、貫名海屋筆の『蘭亭帖序』であった。其の茶褐色の布張の表装の法帖には愛着があり現在も持っている筈だ。字の下手な私も、たとえ筆書きでなくても、後年どうかすると自分の筆跡に、此の手本からうけた癖の様なものがあるのに気付き、若年時に接触したものの影響のおそろしさを痛感する。

 国立の本学矢野二郎翁銅像の書が先生の筆になることは周知の事だが杉山先生は明治二十年代に一時外務省に入り、陸奥宗光の懐刀として三国干渉に活躍したり、約三十年間東伏見宮依仁親王、同妃殿下に漢籍書道を進講されたり、大隈侯、陸奥伯の墓碑銘、住友本社の今上陛下行幸記念碑などが先生の筆であることは余り知られていないので、茲に記して置く。猶私達五組の級名「亦楽」の二字を級会誌の表紙に揮毫して下さったり、私達の十二月クラブ卒業アルバムの巻頭に「螢雪業成、風雪志勁」と麗筆を寄せられている事は非常な光栄である。先生は、私達が予科から本科に進学した年の昭和十四年に、前後二十七年の永年に亘る本学の教壇から退職されたから、私達は先生の最後の授業を受けたことになる。(下線部分をクリックすると揮毫がでます。)

 予科に入っての一番の関心事はやはり語学で、英語のほかの第二外国語をドイツ語かフランス語か何れを選ぶか、だが、私は前から決めていた通りフランス語を選んだ。既に中学の時分から高校へ進んだらフランス語をやり度いと思っていた。私は東京の下町育ちで、中学は三中で、出身先輩には芥川や久保田万太郎がいることを皆が誇りとし、後には堀辰雄や、立原道造なども出たりして、文学書に親しむ素地はあったが、学校の受験重点教育の圧迫もあって、時間的にも窮屈であったが、隙をみてはヂイドの『狭き門』やバルザックの『谷間の白百合』などの翻訳書は既に、読了としていたし、銀座の三昧堂という本屋で最初に買った岩波文庫がドーデーの『風車小屋便り』で、その中の「アルルの女」とか「星」などと云う短篇に訣もなく感歎していた。早く中学を出てフランス語をやってみたいとのあこがれを持っていたのである。だから一も二もなくフランス語を選択したら幸い五組に編入された。そこで次に語学の、英語やフランス語の先生の回想を書く。

 森野亀之助先生
 鼻下に短かく刈込んだ美しい口髭を貯えた色白のみるからに優しい英国紳士型の此の先生が私に忘れ難いのは、予科に入学した四月の最初の英語の時間に、生徒簿を見乍ら「横山君どうぞ」と第一番目に解読を私に当てたからだ。使用テキストはたしかジョージ・ギッシングの文集で濃紺のクロス表紙の薄手の読本であった。余りの突然のことで少々上り気味で、その第一パラグラフを解読したら「ハイ有難う」とおっしゃつた。そこで私はこれはだいぶ中学の英語クラスや先生と感じが違うなと思った。

 山田和男先生
 津田英学塾とかけ持の先生と聞いたが、横顔の良い美男子の若い先生で、さぞ津田では生徒に騒がれるだろうと云われていたが、此の先生の用いたテキストがコンラッドの"Youth"、ゴールズワージーの"Apple Tree"で、誠に印象深く、殊に『青春』の南海の夕焼空を背景にした船火事の場面の描写は見事であった。こうした佳い作品を若い人々の教材に使用するのは生涯の忘れない読書体験となり、大変な功徳だと思う。

 西川正身先生
 府立四中から転任して間もない此の先生は大変英語の出来る先生だとの専らの評判の人だったが、いつも苦虫をつぶした様な真面目くさい顔付で何か面白気のない先生だとばかり思っていたが、Universal Dictionaryなど買い込んで大いに英語の勉強に意気込みを見せていた倉垣君に誘われて、一緒に吉祥寺だったかの先生の自宅をお訪ねしたことがある。その日、倉垣君には、当時流行していたオルダス・ハックスレーの『ガザに盲ひて』の分厚いどっしりした原書を貸して下さったが、私には帰りがけに、「出来たらこれを読んで見給え」と云ってぼっと畳の上に置かれたのが、ぺーパー・バックのいまの新書版より少々大きい、しかし余り厚くない本だった。近頃は見掛けなくなったが、カモメの印のついたAlbatros Libraryで、灰色、黄色、燈色等の色別になっていた文学叢書の一冊でそれは黄色だった。
 何の気なしに借りた本を持帰って読みはじめたら、アメリカの女流作家の作品だとだけ云われたその中篇小説は意外にも面白くて面白くて、一気呵せいに忽ち読んでしまった。アメリカにもこんな文学作品があるのかと驚歎した。北米の雪に埋れた山峡の村の男女の三角関係のラヴ・アフェアーズを取扱ったものだが、マリヤ・シャブドレーヌの『白き処女地』とヂイドの『田園交響楽』とを混ぜた様な雰囲気の、甘美な小説だった。当時は作者と題名を覚えていたのに、四十年の歳月の間に忘却してしまい、ちかごろ再読しなくなって、せめて作者名なりと想起しようと努めて来たが、かの叢書は既に姿を消しカタログもない。処が偶然或る箇所で女流作家Edith Whaltonの名を見出し、此の人だと記憶が蘇り、作品年譜を英米作家辞典で調べたら、"Ethan Frome"という作品名が眼に飛込んで来て想起した。之は極く最近判ったことなので、目下何版でもよいから原書を入手せんと探索中である。

 牧一先生
 実用英語の大家の由で、予科入試の際のディクテーションの読み手であったが、教室に於いても独特の大声で、大きな口を広く開けて唾をとばして発音された。唯、此の先生が何かの時に引用されたThe great city in the solitudeとThe great solitude in the cityという言葉を先生の珍らしい名前と共に思い出すのである。

 中村為治先生
 童顔の頬がいつも艶やかに赤くサンタクロースの様で、動物がお好きで、住居の囲りに七面鳥や豚や羊などを飼育されていた由。予科一年生の時から此の先生はヘロドタスの『歴史』をエヴリマンス・ライブラリーだが一応原書を教科書に使用され、あの細かい活字の本を、かまわずどんどん先へ読み進めて行かれたのは、中学を出たての我々には新鮮であった。此の先生の圧巻は何と云ってもロバァト・バーンズその他のスコットランド民謡詩の朗読で、中でもかのロッホ・ローモン。先生、時に興に乗ると教壇の椅子に坐ったまま、身体を上下にゆすって遂には節をつけて歌い出すという場面があったと記憶するが、そんな時は実に楽しい教室であった。

 次にフランス語の先生に移ろう。

 山田九朗先生
 かつては美しいオールバックに頭髪を整えて居られたのに我々の予科の時代にはどうしたことか短かく丸坊主に刈って来られた。真面目でよい先生だった。フランス語のはじめの授業の時から文法書の他に、カトリックの「公教要理」という白い小型の本を各自持たされたが、なる程フランス文化を理解するためには同じキリスト教でもカトリックの教理を理解せねばならぬのかなあとその本格的な取組方に私は敬意を持った。

 フランス語の発音のことでMoyen-ageのMoyenは普通の紋切型の発音方式だとモァイアンとなる筈だがMoyen-Ageの場合はモアエナアジュとすんなりと工と発音するのだと教えられたことを憶えている。

 先生が読むことをすすめられた文学作品に、フロマンタンの『ドミニック』があった。しかも丁度その頃岩波文庫で市原豊太氏の訳が出た許りで、此の市原氏の訳は訳語の日本語が日本語として素晴らしく、それ丈で範とするに足る、知る人ぞ知る名訳であることを教室でちょっと話されたことがあり、私は聞くなり直ぐ、その少々厚ぼったい岩波文庫を買った。之は作品そのものがまさに青春の書であり、私は未だに手垢のついたその文庫本を愛蔵している。市原豊太訳の魅力にとりつかれた私はそのあと同じ市原訳のセナンクールの『オーベルマン』をやはり文庫本で購め、ほかに、単行本でフランシス・ジャムの『三人の乙女』市原訳に心酔した。ジャムの此の作品は、後に銅版エッチングの挿絵入の限定版原書を入手するに至った。此の作品は最近でも若い女性なんかに、すすめてみると読んだらみんながよかったといって喜ばれる。
 一度私は山田九朗先生のご自宅へお邪魔したことがある。丁度その頃先生はフロオベルの『三つの物語』の翻訳を手がけて居られたが、これは長年に亘り仕事とされていたもので、先生の書斎で拝見したその訳稿は何度目かの書替えられたものの由だったが、それが推敲の朱筆で一面に真赤になっていたのを思い出す。文字通りの彫心鏤骨の苦しい作業を続けられたのであろう。其はやはり岩波文庫版で出た。その時、Alternativementを或る箇処で「かわるがわる」と訳すことにやっと決めましたとおっしゃったのを覚えている。「かわるがわる」は極く普通のあたりまえの訳語なのだが、そのありきたりの訳語に決める迄、いろいろ迷われての上のことかとも推察される。その辺は第三者の一般読者にはうかがい知ることの出来ぬ境域なのだろう。
 次に先生の推奨されたことのあるシャトーブリアンの"Le Genie du Christianisme"(基督教真髄)は一見宗教書の如き題名だが、読みかけてみると内容は、日本文学には極めて普通だが、西欧文学には稀である自然や廃墟に対峙しての感懐や憂愁を流麗な文体で書き綴った一大文学作品であることを識った。之はフランス浪曼主義文学と謂われる、文学史上の一代表作でもある。同じ著者の"Memoires d'Outre-Tombe"(墓の彼方での憶い出)やプルーストの『失われたる時を索めて』と共に、余生の閑暇には時間をかけて、じっくりと読みたい書物の一つである。

 根岸国孝先生
 支那学の大家根岸信先生のご子息で、私達が予科にいた頃、フランス留学から帰朝されたばかりで予科のフランス語の講師としてはじめて教壇に立たれた。如何にも巴里仕込の身だしなみの良さで、髪をきちっと七三にわけ、殊にクリーム色の地に、細かい蚊がすりのネクタイをやはり白っぼいアイボリー色の背広にきちっと結んで居られたシックな姿が印象的だった。訥弁だが何処か江戸ッ子風な伝法的な一面が一寸洩れたりした。教壇の机の上に、背中が割れてばらばらになったフランス綴の原書をきちっと両手で揃えて置いて、一枚一枚頁を繰って講義をされた。瀟洒な身なりと古書。その対象が瞼に残る。そのプリントが教材として、私達生徒に配られていたが、内容は巴里の中心部シテ島の起原から沿革を説きいろいろな建物の変遷を語る固い記事で、一同はなんでこんな無味乾燥なものをという感じを受け退屈の様だったが、今から考えると日本で云えば東京都史紀要の様なもので、もっと突込んで先生につき研究しておけば面白かったろうと今更乍ら悔まれる。

 内藤濯先生
 先生は大学の誇るフランス文学の大家であることは周知だ。お顔の色が少々黒く、眼を時にくりくりと動かされる。女性の様なやさしい声で、フランス語を美しく発音される。ポール・ブールジェの作品を訳読された。講義の合間に話される雑話にまことに面白いものがあった。
 特に詩の朗読を奨められ、照井項三氏等と公演を催されたり、所謂デクラマシオンの重んずべきことや外国語を解する前に日本語を良く解しその美しさを知りなさいと常々説かれた。一時、岸田国士氏と共に物言う術、"L'art de dire"の研鑚を為すべきことを主張されて居られた。此の先生にはフランス詩、殊にボードレールの『悪の華』などについてもっと多くの講義をお聴きして置きたかった。惜しまれてならない。

 プルニエー先生
 モーリス・アルフレッド・プルニエ先生のことは是非その片鱗でも書き留めて置き度い。先生は大正初年から一橋に教鞭を執られ、後年勅任官待遇に迄なられ、一高や慶応義塾の講師も兼任されたが一橋には特に永く勤続されたと聞く。私達は予科一年の初年度から、日本語を用いざる先生の教室の講筵に坐し、いきなりBonjour monsieurからはじまった。たまに英語で説明補足されることがあったが、殆んどフランセである。

 Lisez s'il Vous Plait, Repetez s'il vous plait.の連続である。銀髪で白ル、口髭も白く美しく、如何にも生粋のフランス人という風貌であった。横顔もよく、慈父の如き優しさがあった。
 決して怒られたことがない。たしか初年度は秋田玄務氏編のフランス文法読本がテキストであったが、二年生の時か三年生の時か定かでないが、現在も私の手許に"Pages Litteraires" Choisies et annotees par Maurice Prunier, Librairie Sansaisha, Jimbocho-Kanda-Tokioという、其の頃は神保町に未だあった三才社から発売した小冊子と、白水社のGuy de Maupassant "Premiere Neige"(初雪)とが手垢で汚れたまま遺っている。此の二冊は私の宝物である。
 頁を繰ると、びっしりフランス語で書込みがある。それはどうもプルニエ先生のフランス語による説明を写したものに相違ない。前者の内容はかなり中級程度のもので例えばEmile Faguet "De La Nature De l'Emotion Dramatique"というちょっとまとまった小論文があり演劇に興味を寄せていた私は特に熱心に聴講した痕跡がある。
 その他アナトール、フランスの『我が友の書』からの一節や、ラ・ブリュイエールのキャラクテール、ゴンクールのもの等冒頭に各作者に就いての先生の解説がついている。
 先生から聴取した注記を見ていると湧然と当時の教室の様子が蘇る。殊に後者のモーパッサンの短篇集『初雪』に収められた同名の一篇と、"Le Donneur d'eau benite"は逸品で、誘拐され失綜して行方不明になった息子ジャンを父親が追い索め、夜の闇にジャン!ジャン!と叫び続ける条りを読む先生の声がいまだに耳底にのこる。

 先生は講義の合間に黒板に向って時々白墨の音をさせながら、フランスの名詩を書いて、詠んで下さった。その一つを是非茲に紹介しておき度い。それは、ポール・ヴェルレーヌが愛弟子であり、且つまた恐るべき詩友でもあったアルチュール・ランボーとロンドンヘの放浪の旅の道行のあげく、ブラッセルにて、ランボーのちょっとした、よそ見をヴェルレーヌが嫉妬してピストルを発砲し、そのために、投獄されて、その獄中で作った詩だ。

Le ciel est par-desus le toit,
Si bleu,si calme!
Un arbre,par−dessus le toit,
Berce sa palme

La cloche,dans le ciel qu'on voit,
Doucement tinte.
Un oiseau sur l'arbre qu'on voit
Chante sa plainte.

Mon Dieu, Mon Dieu, la vie est la,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeurーla’
Vient de ville.
  
Qu’as−tu fait,o toi que voila
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as−tu fait, toit que voila,
De ta jeunesse?

 以上だがプルニエ先生は冒頭から二行目のSi bleuの二字を指で抑え、此処が大切で、いい句なんだとSi bleu, si bleuを繰返された。

 次に簡単に解説を試みる。

 暗い獄倉の地底から見上げた天井近くの小さい窓から見える僅かな青空。その空のかなた、何処かで教会の鐘がしづかに鳴る。屋根の上の樹では小鳥がチチと暗く。神よ、神よ、其処にLa Vieが在る。此のLa Vieの意味は広く深い。いわゆる人生でもあり、人々の日常の朝夕の暮しでもある。単調で静かな、此の平和なざわめきこそは人々の住む巷からやって来るのだ。
 おい、其後にいるお前はとめどなく泣いているが、一体お前は何をやったというのだ。何をやりとげたというのだ。お前の青春をついやして。

 まさに神へのざんげと人生への愛着と返らぬ無為の青春への悔恨である。

 私は此の詩の第三節のLa Vie est laという句と最終第四節のQu'as tu fait, toi que voila, De ta jeunesse?という絶叫に強く打たれる。何か自分の青春以来の空しい所業を、もはやおそい初老の年に至ってきびしく問いつめられている様な気がするのである。まさに絶唱だ。

 プルニエ先生に関しての、これは私にはちょっと苦い想い出だが、予科三年生の学期末だったかに、フランス語で自由作文を先生に提出することが課せられた。私は何を書いたらよいか題材に苦しみ、よせばよいのに、ちょっとしたいたづら心から、出まかせの事を書いて出した。それは経済表の創始者フランンワ・ケネーはもともと医者で、かの有名なポンパドール侯爵夫人の寵を受け、一時その侍医を勤めたということを何処かで読んで知っていたのと、ポンパドール夫人の、美しい肩を裸わにした肖像画も見たことがあり、それにヒントを得たのか、とっさの連想から次の様なことを書いた。
 フランスの誇る経済学者ケネーは、かつて侍医として親しく仕へたポンパドール侯爵夫人の美肌に聴診器を当てがっていた時に突如インスピレーションを感じ、血液が人体を隈なくめぐりめぐって心臓に戻って来る、所謂血液の循環現象から、かの経済表を着想したのであろうと、まことしやかに、書いて提出した。しかも、該当の文章の前に Je crois que ...と冠せて出したように記憶する。あのまじめな先生に、こんなふざげた事をと、あとで内心気がとがめていた処、その次の授業の時、心なしか先生が、ながし目で私の方をじろりと軽蔑する様な哀れむような感じで見られた様な気がした。或は私の気のとがめからの思い過しだったのかも知れぬが、長い間悪いことをしたと悔んだ。

 それから予科を出て、学部を卒業して、結婚して間もなくの頃、あれから数年経っての頃荻窪駅前の教会通りという横町の、青梅街道からちょっと北へ入った右側に住んでいたことがあるが、新婚だが佗住いで物資も極めて乏しくなって来た頃である。或る時、日曜日か休日に、どうだ気晴らしに散歩にでも行って見ようと妻を誘って省線に乗って母校、小平の予科の近辺を歩きに行ったことがある。晩秋か初冬の頃で、桜堤と予科の中間くらいの処の、葉の落ちた雑木林と枯野の境の小径を、ひとりの外国人が歩いて来るのを見かけた。よく見るとそれはプルニユ先生だった。上衣のポケットに両手を入れて何か淋しそうな孤影であった。その時私と妻は、野原に屈み込んで、小さなこまかい枯枝とあちこちに散在する喬い赤松から落ちた松かさを拾っては風呂敷を袋状に結んだ中へ容れていた処であったが、先生が近づいて来られた時、私は立ち上って、「横山です、予科でフランス語を教えていただいた横山です」と云ったら、にこりとされて「何をなさっているのですか」と尋ねられ、風呂敷の中の松かさを見せると、いぶかしげに「松かさを何に使われるのですか」と問われた。

 実はその頃物資不足で、私の家でも新婚ながら七輪に豆炭を燃して置いて湯を沸したり、煮物に使ったりしていたのであったが、ふとその時思い付いて豆炭をおこすときの焚き付けに松かさを使ってみようと、散歩土産に妻とふたりで探してはせっせと拾っていたのであった。そのことをたしか日本語で・お話ししたら「そうですか、よい思い付きですね」とにこにこされた。附言するがプルニエ先生は来朝後日本人を夫人とされ、男の子さんがあり、国立の大学裏にあった国立小学校の、紺に赤い線条の入った制服姿を見かけたことがある。だから日本語は充分ご存じなのである。プルニエ先生と日本語で、あの晩秋の小平の原野で家内と立ばなしをしたのが、プルニエ先生を見た最後であった。先生はその後間もなくお亡くなりになった由である。大学の記録では先生は昭和十九年十二月二二日没となっている。

 



卒業25周年記念アルバムより