6組  (黒石 豊子)

 

 「去る者は日に以て疎し」という悲しい言葉があります。然し私にとって亡兄は決して日に以て疎い人ではありません。折にふれてたまくしく思い出すほど、いつも身近な人です。
 二夜三夜療養所に暮す淋しさにたヾ恋ひ夢む母のみもとか
 母恋ひしはゝのみ胸にたヾ一夜いだかれて寝ば病癒えなん

 これは僅か二ヶ月間の療養生活で死んだ兄の病中日記の中に"母恋ふる"と題して詠んだ歌です。
 兄が九歳、私が五歳で父を失いましたので、母のみが命の泉でした。大学卒業をあと一年の時病に倒れた兄でしたが、ひたすら生命の永遠を信じ、少しも死を怖れず、まわりの人々にお礼を言って、合掌して安らかに昇天いたしました。

 いつしか四十年の歳月が流れました。亡兄の分まで孝養をと思っていました母も、兄の十三回忌を終えた翌年、昭和二十九年の夏に急逝しました。終戦という思いがけない事態に、かえって私どもが母の厄介になりましたが、十年間を母と共に過し得ました事がせめてもの慰めでした。兄と母は今は天国でゆっくり語り合っている事と思います。

 母がよくおんぶしてくれた私の長男(男は一人だけですが)も幼い頃から亡兄のことを耳にして育ったせいか、一橋大を選び、卒業して十年、現在銀行に勤めています。長男の受験の際は親馬鹿でお伴して、なつかしい国立の杜のキャンパスに再び佇ちました時は感無量でした。

 兄が亡くなる前の昭和十五年は、たまたま私も乃木坂にあった寮にいましたので、日曜にはよく一緒に出かけ、兄が好きだったムーラソルージュや映画を見たりして新宿の街を歩きました。二千六百年の式典の夜、提灯行列に賑わう宮城前あたりを一緒に歩きまわったのが東京での最後の外出だったと思います。

 ある時、寮で私の財布がなくなりました。兄は早速赤い可愛い上財布を買ってくれましたが、その中には五円札が小さく折りたたんで入っていました。あれこれ思い出しますと、ほんとうにそれらはつい昨日のように思われます。その後会う度にやつれてゆく兄に、再三帰省しての治療をすすめましたが、一向に応じてくれませんでした。

 一昨年は羊の年、兄が存命だったら還歴との思いに、中学時代の兄のお友達を街で見かけたりする度に、流芳会の方々も如何がお過しかとの思い一入でした。兄の死去に際し流芳会の方々が追悼文集まで作っていただき母と共に感激いたしました。この文集は私の宝物としていていつも座右にございます。皆様、とりわけ大居様、鈴木様、中村様には本当に一方ならぬお世話になり有り難うございました。

 ここまで書き終えてあとのしめくくりを書こうとしていました折、四十年振りに図らずも兄の親友の方々との再会がかない、も少し書き足します。

 「おつむが少しかわられただけでー」とこんな失礼を申し上げながら、、七月四日の午後私はステーションホテルのロビーで中村様、鈴木様にお会いできました。卒業四十周年を前にして、何とか磯村の遺族と連絡をという熱意が実を結び、一ヶ月前にお電話をいただいた時には、嬉しくて一瞬耳を疑う程でした。十二月クラブのいわれやら、十月の法要のこと等も伺い、ともかく一度お目にかかり度くこの日の再会が叶ったわけです。

 鈴木様より十二月クラプの名簿をいただき、中村様は当時のアルバムをご持参下さいました。「僕の腰つきが一番いいね」と自慢していた記念祭の兄の花笠踊りの姿、あの時の笑顔が浮んで来ました。倖いアルバムは焼けなかったので私も大切にしています。尺八を吹いている姿、ゼミの旅行のスナップ等みな懐しいものばかりです。とに角、私の脳裏には角帽姿の兄、白絣に笑を浮べた兄の姿しかなく、それは当然ながら全然老けていないのです。

 この日は奇しくも四十年前、ゼミナールの太田哲三先生が兄への追悼歌の色紙を書いて下さった日とて、中村様が今日まで大切に保存された色紙を「これはあなたが持つべき」と頂戴しました。私にとっては本当に貴重な品で感激をあらたにしたことです。その太田先生もすでに故人となられました由、ここに亡兄甦えるような今の私の気持に替えて披露させて頂きます。

 磯村君の霊に贈る

大きなるものに総てを捧げたる身は安しとて逝ける君かも
銀杏には青葉返へれど回らざる君をし偲ぶ春は淋しも
君を想ふ友の心に刻みたる声よ姿よ永遠に生くべし
          昭和十六年七月        太田哲三

 最後に皆様方のご多幸とご健康をお祈りしながら、大学時代の友情をいつまでも持ちつづけて下さるご厚意のほど感謝に堪えず、心から御礼申上げます。