二、三年前、秋の夜長に「レ・ミゼラルブル」を読み始め、半年がかりで読了した。学生時代、世界文学全集三巻のうち一巻を読んで止めて終い、戦後のある時期に又読み始めて二巻で止めて、何時かは全巻を通読したいと思っていたが、やっと思いを果して感銘を新たにしたのであった。
ユーゴーはこの作品の主人公は「見えないお方」だと書いている。つまり神の力が如何に人間に働くかをディーニュの司祭やジャンヴァルジャンによって描いている。ユーゴーは「キリスト教以外の宗教はすべて迷信である」とも書いている。十九世紀の西洋人はこう思っていたらしい。いづれにせよ彼の信仰がこの作品を生み出したことは間違いない。
小説の常としてフィクションの部分と背景になっている事実の記述の部分とがまじり合っているが、このノン・フィクションの部分がたっぷりある。ウォーターローの戦争の場面や共和派によるパリの暴動のシーンなど忘れがたい。特に後者は二、二六事件が思い出され、考えさせられた。若い指導者が親や妻子あるものを戦列から離れさせ、自らは政府軍の砲弾にたおれるところなどそうであった。
思うに人間には誰でも人に知られたくない何か一身上の秘密と迄はいかなくても、身にまつわるかげのようなものがあって、それを隠そうとした経験が多くの人にありはしまいか。そんなところがジャン・ヴァルジャンといういわば突飛な人物を割合身近に感じさせるのではあるまいか。破戒の丑松の場合もそうであろう。
大衆に人気のある小説として欧米で何度か映画化されている。彼等の忠臣蔵の感がある。しかし物語りの面白さは映画化されても、キリスト教の信仰や時代の鼓動はその割に感ぜられない。
一昨年ヨーロッパヘ行った折、パリのヴォージュ広場にあるユーゴー記念館やジャン・ヴァルジャンのかくれて住んだことになっているオピタル通りなどひとり歩いたのも、読後の印象が何時迄も脳裡を去らなかったからである。
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