6組  熊倉  実

 

 これは卒業の時寄書きに残した言葉であって二つの意味を持っている。一つは本業の勉強はどの位やっただろうか!!あまりやらなかった。あと一つの碁勉強はどうだっったか!!、碁はその魔力にとりつかれて徹底的にやったものだ。この二つの意味をこめて書きたかったがまさか碁勉強とは書けなかったので御勉強と書いてみた。

 入試も迫る昭和十一年の春、覚えたての兄貴から強引に相手をさせられたのが碁との出合いとなった。
 予科時代の先生は今は故人となった小坂君、五目位で教えてもらった。その上は武村君、その又上は大先生の田代君(故人)。当時の田代君などは遙かなたの神様の様に思えた。

 一年位は夢中になって碁に没頭した。私が碁の虜になったのは、碁とは「無から有を作る」ことの様に思えたからだ。将棋は小学校の時からやっているが、飛車とか金とかそれぞれの役割は明確であった。その点碁は分りにくかった。自と黒の全く同じ一つ一つの石を並べながら何かを作って行く。「無から有を作る」感じが解り始めるまでには一年位かかったと思う。

 当時は酒やタバコをやり始めた頃だった。ザウッド(津田の森)も気になる色気盛んな青春時代。あらゆる運動もやったり、人生とは何か、生とは、死とは、人生観、世界観等々酒をのみながら夜を徹して語り合ったものだった。友との語らいの中から教えられたことは一ばいあったが、碁から学んだものがとり分け私の生涯に大きな影響を与えたと思う。

 碁はやがて先生方のレベルになり大学対抗戦にも出る様になった。大将は土田君、再将は池田君(故人)三番から五番手に小坂君、武藤君、小生等が並んでいて七名が定員であった。その頃が全盛期?ではなかったか。対抗戦では毎日新聞から個人優勝のカップをもらったこともあった。
 当時一局を打つのに五、六時間かけてやった様に思う。暇と若さにまかせて、お互に一生懸命夢中で時を過したものだった。(中には新幹線の様な人もいたが)

 ある時はとても苦しい碁をやっていた。溜息をつきながらトイレに立った。帰って来ると相手も夢中で考えている最中だった。私は自分の席に戻らずに、ふと相手の後から戦局を見渡した。しばらくしてはっと気がついた。よい手があるではないか。こんなことで悪い碁をひっくりかえして勝ったことがあった。

 こんな出来事を当時一晩中考えなおしてみた。考えれば考える程、物事は「相手の立場で」考えることが、如何に大切なことか、痛烈に胸にきざみこまれた。碁は私にとって遊びだが、遊びでもそれを徹底してやっていたお蔭で何か得るところがあった様に思う。爾来私は「相手の立場」ということを人生の座右の銘、指針の一つと考えた。今だにその考え方を持ちながら人生航路を歩み続けている。会社の中でも若い人達には、勝負でも商談でも、人とのつき合でも、家庭生活でも、自分本意はいけない、「相手の立場で」物事に対処する事が大事ではなかろうかと語り続けている。

 四十年を振返って見るとこの考え方は結果的によかった様な気がするし、大過なくすごしてきた四十年の大きなささえでもあった様な気がしてならない。もしそうだとすれば、それは碁を覚え碁から教えられた私の財産と言えるだろう。


 こんなことがこうじて、卒業後の二十五年目、今から十五年前にわが家の五ヶ条のご誓文を制定した。このご誓文はわが家の家族にとって、ある年限までにそれが出来ないと家を出て行ってもらうと言うものである。

 我家の五ヶ条のご誓文とは

一 碁
ニ ゴルフ
三 マージャン
四 自動車
五 英会話

 一見遊びの五ヶ条に見えるかも知れない。しかし私はそれぞれに意味を持たせたつもりだった。
 碁はいうまでもなく「相手の立場で」を理解してもらいたかったし、ゴルフは健康のシンボルにしたかった。麻雀はチイ、ポン、ロン、勝った負けたと面白さ一杯だが、チームワーク団欒には是非必要なものだと思った。自動車は、ブレーキを踏んだから止るものではなくて、止まるために踏むものだ。時には急ブレーキも必要だ。スピードが出たのではなくて出すべき時に出すことだ。行動力、実行力、決断力を意味させたかった。

 英語は私も好きだったが一寸違った意味を持たせたかった。つまり社会に出て二十年も過ぎると、極端に云えば同じことの繰り返しマンネリになって来る。違った次元で私達のやってきた生活なり仕事なりを見直す必要があるのではないかと思ったからだ。

 私達は学生時代、いざ雄飛せん五大洲、国士としての経済人等々を口にして又頭にえがいていた。私自身もそうであったが年と共に夢は段々と凋み小さく小さくかたまって行く気がしてならなかった。
 八時頃帰宅してから、家族(メンバーは時々替る)何人かで、外人教師の所へかよった。二、三年位やったと思うが長続きはしなかった。英会話が上達すると云うよりも、そんなことをやりながら、英会話と云う違った次元から、本業の生活なり、仕事なりを見直してみたかったからである。

 目下我家全員が五ヶ条を何とか、かじった様な気がする。社会にはまだまだ貢献しているなどとは云えないが、家庭生活、人生航路は今の処楽しくやってきたと思っている。
 家庭でも仕事でも考え様、工夫によって変化してくるのではないだろうか。これからの人生は持時間が大分少くなっている。大切に一歩一歩やって行きたいと思う。

 四十周年記念に際し、思っていたこと、やって来たことの一端をそのまま書いてみた。
 ご笑覧いただければ幸である。