6組  (塩川 昌子)

 

 「琴の爪」

 長女悠子が、十五歳の時一人でドイツヘ音楽の勉強に旅立つことになりました。はじめて親と離れ見知らぬ国へ行くのだから何か記念に持たせ度いと考え、私の娘時代に使ったお琴の爪をヴァイオリンのケースに入れてやりました。それは可愛い縮緬の端切れで桜の花の様に口をしぼった手縫いの小さい袋に入っていました。終戦も間近い昭和二十年の六月私は当時海軍主計大尉だった主人と結婚し、いつ玉砕するかも知れぬという時代でしたので、お互に何かをと、琴の爪と、一橋(当時は商大でした)のバックルを交換して持っていた、その琴の爪です。娘のヴァイオリンと共にその後二十年近くもヨーロッパ、南米、北米と、各地を廻り、お守りの様になって居りました。
 一昨年の四月、思いがけぬ主人の急逝に、悲しみは涙も枯れる思いでございましたが、最後のお別れの時、沢山の花に埋もれた遺体に娘達は生前主人のホビーであったゴルフのボールと手袋、そして大のファンだったジャイアンツの「巨人」という小雑誌をお棺の中に入れました。胸にはロザリオをのせて……。
 その時長女は、お琴の爪をパパに返し度い、本当はママからパパに上げたものなのでしょうと涙乍らに申します。私はもうあなたのお守りなのだからと反対したのですが、娘はきかずに、爪を一つだけパパの胸の中に入れました。家族四人の写真と共に…。
 三つあるべき琴の爪は今二つになってちりめんの袋に入り又、娘のヴァイオリンと共に、あちこちを旅をして居ります。
  (註) バックルは予科のものでしょうか。いちょう葉がついています。今も大切にして写真と共に飾ってあります。

 「箸」

 昔の人はよく対のものが一つ欠けると縁起が悪いと云いましたが、或日、それは主人が発病して入院間もない頃のこと、私の箸が一本行方不明になりました。七年程前に主人と、北陸旅行(十二月クラブの東西懇親旅行)をした時に求めた輪島塗の夫婦箸で、輪島塗としては珍しくいぶし銀の様につや消しの塗りで気に入っていましたので、残念でならぬと共にいやな予感がして誰にも云わず片方はそっとしまって居りました。
 その中病気は重くどうにもならぬと医師の宣告を受け途方にくれ、悲しみの余りふと次女の晴子にこのことを話してしまいました。そしてもしかしたら台所の流し台の横の壁とのすき間に落ちているかも知れぬと申したところ、娘はそれから夢中になって、その指一本も入らぬ細いすき間に、針金やら細い棒やらで懐中電灯を照らし乍ら必死になって探してくれました。

 まるで何かに愚かれた様な真剣なあの眼差しは忘れられません。もういいからあきらめてと云っている中に、あった!!と大声を出して棒にかかった一本のさび朱の箸をとり出しました。思はず二人で抱き合って大声をあげて、泣きました。夕暮れのうすら寒い台所で…。

 お箸が出て来たからきっとパパはよくなるわよと涙乍らに慰め合いましたけれど、
  ……とうとうパパはなおらず天国へ逝ってしまいました。

 



卒業25周年記念アルバムより