三十周年記念文集が出てから一〇年、光陰矢の如しの譬え通りもう一〇年経って了ったのかという気持と、記憶力減退の為か一〇年前のことは遙か霧の中に呆けて末だ一〇年しか経たたいのかという気持が交錯して来る。
記念文集の原稿をと筆を手にして、その様に交錯した気持で何を主題にしてよいのかと思いあぐね、今更過去のことを振返って見ても始まらない。これから先のことをこそ書いてみたい気持に駆られてはみたものの、所詮は道草の様な己れの人生には何等誇るに足る程のものがある訳ではなし、さりとてこれから先のことも、世の為人の為などと大上段に構える心組みはさらさらないので、自己記録を整理する意味とこれからの二つ目の人生(第二の人生ではなく)の人生設計を描く意味で、標題を『これからとそれから』と決め、整理し乍ら書いてみることとした。
『それから』では、三十周年記念文集に書いた学帽と軍服時代以後のサラリーマン生活を整理し、『これから』では、自適生活に入って二つ目の新しい人生を味わうとしているこれからの人生設計の夢を描いてみたい。
一、それから
敗戦という異常事態の挙句、軍務から解放されて懐しい東京に帰って来たのは終戦後二ヶ月有余経てからであった。
当時の九州南岸一帯は米軍の予想上陸地点であった為、一〇数ケ師団が布陣し、終戦となってそれらの師団を鉄路復員せしめる必要上、九州出身兵の復員は鉄道利用が出来ず徒歩で帰郷せねばならなくなり、復員兵達に藁布団の中身を全部出させて袋代用にしてその中に今迄ため込んでいた衣料・食糧品などを配って詰め込ませ、運搬用に馬糧ごと馬を与え九月中に全員復員させた。
それでも鉄道は混雑していたので、一ヶ月以上下宿でのんびりと時をすごし、やっと家に帰れたのは十月も終りに近い頃であった。
家に帰って、.翌日久し振りの背広姿で日本郵船の本社に出頭した。九州の僻地にいて而も情報不足もあって、郵船本社が進駐軍に接収されていることも知らず、丸の内の本社入口でMPから『ヘイ!』とつまみ出されるように追返される始末、敗戦国民のみじめさを味わされるスタートとなった。
当時の郵船は持船を殆んど沈められ、残った船も大部分が戦標船で而も船舶運営会に召上げられて、オペレーター機能を喪失し、仕事らしい仕事とてなかった。
明治十八年に郵便汽船三菱会社と共同運輸鰍ェ時の政府の仲介で合併して日本郵船として発足し、政府の命令定期航路運航の代償として充分な補助金を受け、国家的庇護の下に七十余年の永きに亘って営々と築き上げた嘗ての郵船の姿に復活することは、停年迄には望むべきもないと在社の魅力を喪失し、運輸省に一時移籍して船が戻って本来の活動が出来るようになったら郵船に戻って来てもよいとの勧誘もあったが、それを断って郵船を飛び出した。
時恰も終戦の混乱期で、胸をふくらませて巣立った許りの若雛が大空にはばたこうとしても、それは余りにも浪風の荒い世界であった。
郵船・物産などの若手が中心になって作った会社は、夢ばかり大きくて荒浪を乗切る舵力を失ってほんろうされ、うたかたの様にきえていった。
沈没寸前の船から乗移るようにして入った会社が明和産業で、その頃は終戦の混乱期からぬけ出て、漸く経済活動が正常化しつつあった昭和二十五年七月であった。
恩師の山口茂先生から、行く処がなかったらM石油にはいつでも入れるからそれをより処にして、気の向いた会社を選ぶように云われていた矢先、明和産業への話があり、会社のことは何の予備知識もなかったが、会社は解散させられた三菱商事の新会社で、旭硝子・三菱化成がスポンサー会社だからツブれる心配はないと云われて、面接に赴くと即決で明日から出社せよとのこと、恰度自動ドアーの前に立ったらドアーが開いたのでスッと中に入るような形で入社して了った。
処が入ってみて吃驚した。相手先の信用調査もしないで拡販政策をとった為、不良債権が続出累積してパンク寸前の状態で、入社して半年も経たない内に第一回目のガタが来た。
幸いスポンサー会社のテコ入れがあって弥縫的にその危機は乗切れた。
然しそれも束の間、一時的糊塗策で済ました為僅か一年半足らずの内に第二回日のガタが来て、到頭三菱銀行・東西交易・旭硝子・三菱化成・明和の五社協定が出来、抜本的解決策が採られて、やっと立直れるようになった。
立直りは早いもので、昭和三十年代に入ると経済伸長のスピード化と相侯って、会社内容も急速に充実して資本金の数倍あった赤字も解消した。
その頃、大合同新発足した三菱商事は急激な業務拡大に伴って人手が足りなくなり、明和から社員を移籍することになって、その第一陣として昭和三十四年商事に転籍させられることとなった。
商事に入社してから二年後、当時急膨張していた石油・化学品・油脂などのストック・ポイントとしての油槽所業務を取扱う新部門がスタートし(施設部)、定年になる迄その業務にたづさわることとなった。商事の綜合油槽所は、川崎・名古屋・神戸など全国八ヶ所に順次建設され、完成した巨大な油槽所群は、所謂九大商社を一カラゲにしても商事一社には到底及ばない程の規模と取扱量を誇り得るもので、終始その建設業務に当って来たので、商社業務としては縁の下の力もち的業務ではあったが、それらの設備は謂わば商事在社のモニュメントとして今後も尚心の中に姿をとどめることとなろう。
昭和四十八年に、八番目の油槽所として、千葉県市原市に当時としては我国でも最新の完全に自動化された油槽所を建設した。
施工業者なる千代田化工建設も未だ手掛けたこともない当時としては最新のコンピューター技術を採入れ、その為に油槽所要員は従来に比し五分の一で済む程経済性にも富む設備であった。
京葉地区に油槽所用地を物色して土地を確保することから手掛けた関係もあって、油槽所の建設が済むと、それに隣接して産業廃棄物処理工場として蒸溜センターの別会社が創設され、昭和四十九年から出向、略々五年に亘る千葉チョン生活を余儀なくされることとなった。
然しその間、五十四年六月に妻に先立たれ、娘二人を逗子の留守宅に置いて約一年間別居生活を送ったが、年頃の娘に留守させることは不憫でもあり、そろそろ汐時とみて五十五年七月末を以って三十数年間に亘るサラリーマン生活におさらばすることとした。
三十数年のサラリーマン生活を振返ってみて、今迄の人生に於てそのサラリーマン生活は一体何であったのかと、時には、一種のむなしさを感じ、、時には別のなつかしさを感じたりして、複雑な気持が錯綜する。
或る時期雑念に捉われることなく、一事に専念して所謂生甲斐を感じた時はあったとしても、所詮サラリーマンはサラリーを得るために、日々通勤の習慣生活を強制され、諸種のストレスに耐え乍ら尚課せられた仕事を時間的制約の下にやりとげねばならない必要に迫られ、時には自己の意志希望に副わなくても所謂宮仕えのつらさと悲哀を噛みしめ乍ら事に当らねばならず、その在り様は真黒くむらがりうごめいている働き蟻の集団の中の目にとまらぬ一匹の蟻の姿が思い浮ばれて、自嘲的気分に陥る一時もあった。
だが、歌にも唱われた通り、サラリーマンは気楽な稼業と見倣されて、事実その様に思えた気楽な時期もあったのも確かだし、何にもまして貴重なことは、その間広い範囲に亘って知己知友を得たことである。
己れの会社生活が、こと志と異って道草的なチンドン屋式行路を歩んで来ただけに自己の意志決定で入口を選んだのだから、くねくねと廻り道をして了ったことを悔む気持はさらさらないが一本筋を歩むよりもバラエティに富んだ知己知友を得たことにもなり、『一期一会』『袖振り合うも他生の縁』と仏語にも云われる通り、その貴重な縁をこれからの人生のよすがとして、心機一転これからは余り道草を喰わないで歩き続けることとしよう。
二、これから
サラリーマン生活におさらばしたからには、もう二度とサラリーを得るために、日々通勤して宮仕えの悲哀を味う生活は御免蒙ることとした。
通勤する必要がなくなると、毎日が日曜日の生活となる。朝起きるのは気の向いた時間でよいし、いつ迄夜更ししても明日の起きねばならぬ時間の制約がないので、低血圧の体質であるため夜更し指向型の体質には(麻雀の徹夜は今でもヘッチャラ)もってこいの生活である。
だが、毎日が日曜日の生活に馴れると曜日の観念が薄れてくる。先日、態々電車に乗って鎌倉の三菱銀行に行ってみると、営業時間内だというのに閉店している。三菱銀行ともあろうものがと一瞬思ったが、よく考えてみたらその日は祭日であった。道理で駅前には行楽客が蝟集して居る筈だと、我乍らそのうっかりさにあきれたが、毎日が日曜日の生活者にとっては余り笑えぬ話でもある。
自適生活に入って最も有難いことは、精神的ストレスを全然感じないで済むことである。その反面、どうしても日々の生活が平調で刺激も薄れてくる。それを防ぐ意味で殆んど一日中音楽をかけっ放しにすることとした。
従来使っていた旧いステレオは棄て、最新式のシステム・ステレオ・コンポを据えつけ、更にカセット・テープ・コピイをとれるよう大型ラジカセを併置し、レコードやテープもクラシック・ムード音楽など殆んど凡ゆる種類のものを集め(蒐集癖の為未だ聴いてないものもあるが)、時にはじっくりとクラシックを静聴し、時にはながら音楽としてのムード音楽を流し放しにするなど、二人の娘も夫々のステレオで好みの音楽をかけるので、休日などには家中仲々賑かである。
VTRも早速取付けてみた。裏番組をとったり、夜遅い番組を録画しておいて、日中暇な時にじっくり見たり、又テレビの音楽をテープに録音したりして、結構忙しい日々である。結局、VTRを家庭内で活用出来るのは、毎日が日曜日の暇人にして始めて可能で、謂わば家庭でのVTRは暇人の玩具にすぎないことがよく判った。
自適生活に入って間もなく、大船にある或る中小企業の社長から相談を受けた。その会社は、市原で五年間のチョンガー生活を余儀なくされた仕事に関係のある企業である。
その社長の懇請は、小生の永年の三菱生活、一橋関係のえにしを活用させて欲しいとのことであった。
当方としても、今迄に得た四〇数年に亘る貴重なえにしを更に深め、又そのえにしの裾野を更に拡げることにもなるので、日々通勤のオブリゲーションなしで、気の向いた時に気の合うえにしを活かすことで快諾した。その社長一家と家族ぐるみの附合をするようになって、今迄歩んで来たのとは全く異った世界に踏み込む心地がして、こんな世界もあったのかと目をみはる思いであった。
その社長の歩んで来た道は、小生の六〇数年のそれとは謂わば住む世界が違う程のものであった。
彼は、千葉県の政界の大ボス(あの浜幸でも頭が上らない由)の長男として生れたが、少年時に鉄橋の上で汽車の前を走って櫟かれる寸前十五メートル下の畑に飛び下りて大怪我をしたり、疾走中の電車の窓をあけてコショーをふりまいて乗客を皆クシャミ攻めにしたり、女教員の机の抽出に青大将を入れておいて彼女を失神させたりの数々の悪童振りを発揮した挙句、成人になる前に家を飛び出し、夜の銀座を彷徨し、関東一円の親分に顔を利かすかと思えば、歌謡界の遠藤実・フランク永井・北島三郎・松尾和子など彼等が流しをしていた頃からの知合で(ビクター歌手のテストに合格し芸名までつけられたが、流石親父が赦さなかった由)、余人の測り知れない裏道人生をくぐり抜け、何ものにもたじろがない強靱な筋金が入って、父親ゆずりのまともさに帰って現在の正業についたのは一〇数年前のことであった。
そのまともさと、多彩な人生体験から来る人間的魅力に惹かれるのか、彼の出入する一流企業の相手先にすっかり愛顧信頼され、今ではその業界のベテランとして名が通るようになった。
彼との出合は、相互に有無相通ずることによって、彼の会社を大きく育て上げる点で、小生にこれからの人生の張合いと生き甲斐の多くを与えてくれることになるであろうし、二〇数年も若い彼との家族ぐるみの附合は、若返りの妙薬として、これからの新しい人生に大きな活力を齋らしてくれるであろう。
昭和二十八年、親父から貰った家作二軒を売り払ってその金で三鷹に家を買い、永年生れ育った故郷の昭島市から三鷹に引越して四ヶ月目、当時五歳であった長女を日本脳炎で亡くした痛手に耐えかねて、妻の悲嘆を見かねた岳父の勧誘もあって、その年末逗子へ移り住むようになったのが逗子に居を構えたそもそものきっかけである。
逗子に移って間もなく、当時国立に住んで居られた山口先生がひょっこりと尋ねて来られ、国立は寒いので暖い処へ越されたいとのことで、早速邸地内の裏山の中腹地を御案内すると逗子の街と海が一望出来る眺めが気に入られて即座に移住を決心され、先生御一家が越して来られてから次々と、その隣りの余地に野瀬家(昭一〇)、小宅の右隣りに服部家(昭二四、先生の二女道子様の主人)、樋口家(昭八、物故、当時横浜市大教授)、福島家(昭二八、樋口教授長女主人)が移って来て、所謂山口村を形成するようになった。
ちなみに赤松要先生がこの近くに越して来られたのも山口先生の勧誘による由。
愛児に先立たれた逆縁の悲哀に、当時は好きな麻雀も一年間断つ程のショックを受けたものの、その生れ代りのように二人の娘を授けられて、その悲嘆に耐えられる年の若さと分け合った伴侶がいたが、それが二〇数年という年月の経過によって漸く死児の鹸を数える気持が薄らいでいた矢先、それ迄一緒に耐えて来てくれた伴侶に先立たれたことは、流石こたえた。
それでも、妻を亡くしてより一年間は千葉チョン生活を余儀なくされ、仕事にかまけてその悲哀を紛わすこともあったが、平家物語にある、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』、『生者必滅、会者定離』という一種の無常感にとらわれて、サラリーマン生活におさらばする気持ちになったことは否めたい。
人は、夫々の性格として、多少の差はあるにせよ、割切り型とそうでないタイプとに分れるようである。
その善悪は別としても、人生行路に於て、割切り型の性格の人は、コンマ以下の端数は切捨ててさっばりとし、後を振向かないで前へ進もうとする。処が、割切れない性格の人は、コンマ以下の端数に未練を残したり拘泥してくよくよし、足踏みしたり後を振向いてばかりいる場合が多いようである。
両親に死別する順縁の悲哀は、或る程度割切れるものであるが、逆縁は仲々割切れるものではない。順逆の悲哀を味わねばならない当人の心情は、.余人には同情することは出来ても、到底測り知れない深さと複雑さのある心の世界である。
生者必滅・会者定離の理を何度自分の心に云い聞かせたことか。今更どうしようもない死という厳然たる現実の認識を何度自分の心に命じたことか。線香の煙が上に昇り乍ら消えてゆく様を見つめ、消えた煙を元の状態に戻すすべとてない現実の非情を直視しつつ、割り切らんとする意志と割り切れない情意とが入り乱れて、本来は割切り型の性格である筈の己れが、或る時間、行きつ戻りつの精神状態であったのは事実fある。
然し、一年有半にして、やっと気持の整理が出来て、本来の割切り型の性格に立ち戻れるようになった。
これから成し得ることは、亡妻の冥福を祈ることであり、これからなすべきことは、亡妻がいまわのきわで心残りしたであろう二人の娘のこれからを見とってやることである。
そのような気持に落着きつつあった昨年末、十二月クラブの大阪のK君から再婚の話が持込まれた。
それ迄は、余り深い関心は持っていなかったが、父を一人残して嫁することにためらい勝ちな娘の心情を察し、又残されてゆく己れのこれからをも考えて、割切り振りを発揮してその話に応ずることに決し、一月中旬大阪に出かけた。
結果は色々な点で不首尾に終ったが、K君が謂わば再婚問題の火付け役となって、それからは色々な方面から話が持込まれ、時には両手に花の気持になったり、時には三又路でどの道を選ぶか迷う気持になったりして、その間十二月クラブの連中が色々心掛けてくれたことは、まことに有難いことであった。
五月に至る迄僅か四ヶ月の間に、話としては一四件、実際の見合は四件あり、こんな年でよくあるものだなと、我乍ら微苦笑を禁じ得なかった。
だが、新婚の場合と異り、、双方に色々の経緯.・系累などがあって、結果的には凡て空振りに終り、矢張り難しいものだなと、少々期待疲れを覚えて来た。
恰度その時、十二月クラプのT君から急に話が起きて、五月下旬T夫人立合いで京王プラザ・ホテルで逢うことになった。相手はT夫人の女学校時代のクラスメートであるという相互の安心感もあって、僅かの面談時間ではあったが、即座に双方共合意点に達した。
割切り指向型の典型を発揮した訳だが、学友という永年の貴重なえにしが割切り指向の原動力であったことは間違いなく、このような場合、よく『御縁ですよ』と云われる不可思議なニュアンスを直観することが出来た。
相手の女性は、父方が九州の或る殿様の後裔で、母方が京都の或る公卿さんの後裔であることは、後で判ったことであるが、当初逢った段階では、そのようなことは何の関係もなく、相互に学友というえにしの貴重な心証を前提に、この人ならやっていけるという相互の直観が即決の合意を費らしたのだろう。
割切り型の場合、えてして、早とちりしたり、うかつであったり、云わずもがなのことを云ったり、衝動買いして散財したりで、余り早く割切ったが為にあとで色々な悲喜劇を招くことがある。
だが、今度の場合、割切って即決したが為の悔を覚えることは全然なく、それ以後のデートを重ねるに及んで、益々割切ってよかった感を深くし得たことは、さいわいと云うべきか。今迄平常の場合に比し、逆縁のふしあわせを背負わされた身にとっては、正にそれを取り返して余りあるさいわいを齋らしてくれる女性と思えてならない。
或る銀行の支店長から云われたことだが、『今年は、巳年(六十四歳)の人には六〇年に一回という強運の年廻り』の由である。今迄余り縁起をかつぐことはなかったが、そう云われてみると思い当るふしがないでもない。
事実、年初早々、約七年間に亘って係争中であった裁判が勝訴になって、土地代金が親の遺産分与という形で東京都から支払われ、タナボタ式に可成りの金がころがり込んだ。
八十一歳で亡くなった父は、大様で気前が良かった。子供の頃、戸棚に無造作においてあった父の財布の札束から一枚失敬しても、何だかおかしいなと首をかしげる程度で済んだ。学部に入る時、父は毎月小遣いをやるのは面倒だからと、三年分の小遣いとして二千円の貯金通帳を作ってくれた。当時のサラリーマンの初任給が七十五円程度で、而も自宅通学だったからそれで充分賄えた筈だが、生来の浪費癖のためか、僅か一年半たらずの内に使い果して了った。
大学へは殆んど行かずに駅前のエピキュールのママに前金を預けて喫茶店に入りびたり、毎日のように日比谷、神田、新宿などに出かけて映画を見たり本を漁ったり、月に何回と墨東の夜の街を彷徨して若さを発散し、学期休みに必ず国内・海外旅行に出かけて、恰も金は使うためにあるのだとばかりに浪費したのだから、無理もない。父はそれに懲りてか、今度は当時十数軒所有していた貸家の家賃取立をまかされ、取立手数料として二軒分の家賃六〇円が毎月の定収となったが、時々本代と偽って臨時収入をせしめたので何とかレジャー生活を維持出来た。
そのような父であったから、今度の遺産分与にしても、あの世から父が息子のこれからの新生活を心配して、貯金通帳を作ってくれたように纏めて小遣いを恵んでくれたのかも知れない。
今、一つの人生が終り、二つ目の新しい人生が始まろうとしている。
あの世の父から小遣いを貰い、新しい伴侶を得て、通常云われる第二の人世とは異った意味と内容の新しい人生を歩んでみたい。
一生に二つの人生を味い得ることは、考えようによっては得難いものであるかも知れないが、三十数年前に何でも出来るような気持で胸ふくらませて描いた夢とは異って、限られた枠内でのより現実的な夢にならざるを得ないけれども……。
二十一世紀は丁度六十周年になる訳だが、その時でも尚シャキッとしていたいと心に期している者にとって、これからはまだまだである。
−−亡妻の三回忌を終えてーー
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