6組  武村 貞吉

 

 「・・・・きびしい環境下、誠に遣感ながら株主の皆様には……来期以降は必ずや云々」今まで書き慣れた文句であるが之の原稿の締切りが頂度会社の決算期であり労々六十二歳ともなれば何となく辻つまが合う様で妙な気分になる。

 狂乱の世を生き抜いて来た気もするが反面何程の事も仕出かさなかった様でもある。しかし戦傷以外には病気知らず、自慢できることでもないが私にとって人生最大の幸福であったと思っている。

 次には何と云っても一橋生活を通じて実社会入りの基礎準備が出来たことであろう。琵琶湖々畔の田舎中学を出るまでは世間を見渡せる範囲はせいぜい半経数十粁程度に過ぎなかった。予科に入ったからとて直に一人前になったとは思はない、驥尾に附して何うやら卒業した様なものだが之の六年間に得たものは大きかった。
 負ふ所の大きなものは先づ同クラスの諸兄からである。私等の遙か及ばない学究派、抜きん出た一芸一能の持主、或は天賦の人品、統率力の芽生えを見せる面々。それ等を私が吸収し得たのではない、比較して自己を見直し得たのである。

 それから諸先生の教室である、大ていの場合プリント暗記で誤魔化して来たので大きなことは言えないが学問とは研究とは何んなものかと言ふ点は理解出来たと思っている。と同時に残念ながらその方面への希望を放てきしたのは己むを得なかった。

 しかし触発され易い青春期の予科時代、探究心はあった。それが図書館通いとなって人並みながら諸家の作品、史書等を読み漁ったものである、之が今日まで雑書耽読癖と化した様だ。

 遊びと云へば囲碁であった。当時八大学位で春秋二回のリーグ戦は時間制限なしであったから熱が入った。学生時代以降何十年、費した時間を他の面に廻して置けばと考へる事もあるが別に後悔はしていない。

 そして素地がどうやら出来た所で卒業が戦争にぶつかって了ったのは御同様で何しろ戦中派の代表である。

 此の軍隊時代だけは私も運命論者である。今となっては寧ろ愉快な思ひ出となっているが何度かは死が覗きに来た様だ、が運がよかった。

 直接間接戦争被害のなかった方はいない筈だが私の場合は右手がぶらぶらになって後送され、終戦直前に兵役免除となって永らえ得た次第である。全然痛いと云ふ感じはなく血が出るに従って気分は楽になり次に眠くなると云ふ段取りでこれは一つの参考経験であった。揚子江上流のことである。近くに桃原と云ふ町があった。私の次兄が京都師団の後備将校で、私共の穴埋めに補充されて行って全滅に遭っている。

 終戦后は夕張炭鉱から始るサラリーマン生活を三十数年、会社が呉れる給料以上には働いた積りであるがここで申上げる様な特記事項はない。具体的に列挙は出来ないが一橋時代に培った下地が有効に作用したことは確かであった。勿論今と違って当時は大学卒の稀少価値もあっただろうが。

 唯右手の後遣症として手指不全で満足な字が書けないのには困っている。算盤は持てず毛筆の署名や年賀状書きには人知れず苦労する、」とうとう今日まで手帳持たずの生活を通した。左手一本でふんどし位は締められるのが取りえである。実務で経理にでも廻されたら忽ち失格しただろう。一貫して営業畑であったし今日まで続いている。

 炭鉱会社は何所でも酒で坑夫を動かした昔の習慣が尾を引いて酒飲みも案外人気があり少々のことは大目で見られたものである。最初の一、二年の課長が一橋先輩でこの人が大変な酒豪であって仕事のやり方と併せて大いに教育される所があった。その後は不思議と気を配って呉れる直接の上司を持った事はなく従って小煩い思いは殆どしなかった。

 構造不況会社の代表格で此の面ではつらい立場にもなったが今は別会社で出来るだけ気楽にやって行こうと思っている。

 最近のこととなると仲々書きにくい、独りよがりの事柄は第一読んで貰えない。それで此処まで書いて暫く筆が止って了った。大体此の様な小文は一気に書いてしまわなくては文章にならない。最近数年間仕事の方もあれこれ考えてやや気ながに段取りを決めて進める様になったが何うも老化現象かも知れない。

 昔は何でも一拠に取りかかったもので此の方が出来ばえも良かった、書きものも同じ理屈の様だ。
 どうやら思い出草の原点は一橋生活と軍隊時代となっている様だが矢張り若い時のかなり強い印象と云ふか人生経験であった故だろう。

 六十歳を越すと三、四人集れば話は必ず昔のことが思ひ出話となる、でなければ食いものと健康問題。之は先が短いせいで己むを得ない。
 私も負傷して退却中は一変して臆病になった、五体満足の時は夜の鉄砲だまは別として機関銃や飛行機位は左程恐くなかった。お金も費うに従って残りが惜しくなるのと同じで臆病になるのも短くなった先々が大切になるのもごく自然あたり前のことと思ふ。

 人生論めいたことは厄介だから暫くおいて私は次の呉清源の言葉が好きだ。曰く「碁は貪っては負け、怯んでも勝を得ない」 呉清源の均衡論である。まあゴルフでも何にでも通用しそうだ。

 私の父親は人一倍押しが強く何んでも人の前に出たがる方であったが母親の方は反対に遠慮に徹して一生を送った方である。しかし私が都合よく中庸を得ていると云ふ訳ではない。先ず年齢をわきまえて自然体を旨としてやって行こうと思いここ数年部屋にさる書家に「平常心」の三文字を書いて貰って仕事のあい間に眺めるのを日課としている。

 



卒業25周年記念アルバムより