6組 中村 達夫 |
私は母方の祖父の血を多く受けているようである。私の母方の祖父は本郷湯島に住んでいたが、この土地での仲々の世話役だった。 祖父が亡くなったのは私が小学3年生の時であったが、幼な心にも随分と沢山の花輪と数百名を超える葬列の人に眼を見張った記憶がある。後年この祖父の業績を調べてみたところ特に公職として高い地位を得ていたわけでもなく、また大企業の幹部であったわけでもなく、せいぜい区会議員の後援者であったり、区政についての協力者程度であることがわかった。 仲々の頑固者ではあったが一面好人物で、仕事に関する紹介依頼、就職の世話、縁談のとりまとめ等々で忙しく、いわゆる町内の顔役であったことが葬儀が盛んとなった理由であったようだ。 祖母がまた随分と面倒みのよい人であった。祖父母の家が比較的近かったので、私はちょくちょくよく出かけて行っては私の叔父の子供達であるいとこ連中と遊んだものだが、いつも人の出入りが繁く、祖母が愛嬌よくもてなしていたのを未だに覚えている。 人に頼まれるといやとは言えない質(たち)は、この祖父から受け継いだものであろう。人に頼まれて何かお役に立つことが出来たときは人一倍嬉しく思う方である。 私は約四年間の軍隊生活中で死にかかったことがある。腸チフスにかかったときである。忘れもしない昭和19年12月14日に入院をしたのだが、昭和20年の元日には第一報が出された。陸軍で第一報が出るということは『ヤマイアツシ』という電報または電話が病院から原隊に出されることである。この連絡を受取ると原隊では葬式の準備をするのである。 私の場合も屍(しかばね)衛兵勤務が割り当てられたというのに、奇蹟的に生き延びた。後日軍医から『君は心臓が強くて助かったんだな。』と言われた。 このほかにも共産軍のゲリラの剔抉作戦をしていたとき、突然戸口からとび出して来た敵兵と出合いがしらにぶつかって取っ組み合いとなったことがある。この時も部下の素早い行動で危うく命を永らえた。 戦後にも私は肺結核にかかり、吉祥寺の下宿先で大喀血をして死にかかった。この時もその当時胸郭成形手術をしたばかりで自宅療養をしていた細谷直一君が馳けつけてくれて適切なアドバイスをしてくれた。 今、私がこんなに元気で頑張っていられるのに麦倉君も細谷君も既に亡き人である。この二人の友を何かの折に思い出すとき、私はいつも感無量となる。 病後で浪人同様であった私が、その後20年以上も、そして現在でも勤務している日米ブラインドエ業株式会社(昭和56年1月5日以降、株式会社ニチベイと商号変更した。)に入社することになったのも、中学、一橋を通じての友人である藤野一郎君(昭18卒、西川産業株式会社取締役大阪支店長)のおかげである。 私が今日あるのは、献身的な看護をしてくれた医師と母、そして身近で励まし、応援をしてくれた有り難い友人達のおかげである。私は、漸く心身共にすっかり元気をとりもどした昭和35年、これからの自分の人生は、世のため、人のために渾身の力を尽すことであると心中ひそかに決意していた。 昭和36年12月2日、3日の両日、熱海八丁園ホテルで開催された十二月クラブ卒業20周年記念総会においてその初代幹事長を命ぜられたことは、私にとって運命的であったと言えるかも知れない。 それからの5年間、沢山素晴らしい友人達の支援によってわが十二月クラブは他校から同窓会意識過剰だとよくいわれる如水会の中にあっても、特にきわだって活動的な同期会として年々飛躍的な発展を遂げたのである。そして不思議なことに、私の健康もメキメキと良くなったのである。 十二月クラブ幹事長を丸5年間勤め、昭和41年12月に片柳君にバトンタッチすると、一橋端艇部OB会である四神会での役員の仕事が待ちかまえていた。 私自身も昭和13年には弱冠予科生のみの単独フォアクルーのコックスとして出漕し、並み居る大学の強豪クルーを総なめした。昭和14年、15年には端艇部の幹部として優勝の喜びを実感し、ボートとは一生縁を切ることの出来ない宿命を負ったのである。 昭和53年の4月、当時如水会の事務局長であられた樋野さんが私の会社に訪ねて来られた。そして『この6月に開催される如水会の総会であなたを理事候補者として推薦するので受けて欲しい。』と伝えられた。事務局長は私の十二月クラブや四神会での奉仕振りを高く評価されてのお話である。 如水会ではこの時、新如水会館改築という大事業が始まったところであった。早速改築委員の仕事も仰せつかった。如水会の組織強化担当理事ということで運動部、文化部OB会連絡協議会の組織化についてのお手伝いもした。大平総理就任のよろこびの祝賀会と悲しみの追悼会にも実行委員としてお手伝いをさせていただいた。如水会館とりこわし直前のお別れパーティでは思い切った演出も企画させていただいた。 如水会の理事は任期2年、二期が限度であるが、再任され二期目となると常務理事ということになる。組織強化担当の他に財務担当という役も仰せつかってその任務は極めて重い。57年6月までの任期一杯懸命におつとめする覚悟である。 私のいくつかの世話役としての仕事のうちで現在特に重要マークを付けてあるのは十二月クラブ卒業40周年記念事業策定委員長という仕事である。この原稿が活字となって皆さんに読んでいただく昭和56年12月の頃にはその主要な任務は峠を越していることになろうが、合同慰霊祭、母校への記念品の贈呈、40周年記念全国総会、記念文集の発行、身につける記念品の配布、そして特別募金、これ等の事業すべてを成功裡に実施することについてどのようなお手伝いをしたらよいか、これが私の最近での通勤電車の中での頭のリクエーション、健康法の一つである。 私が健康を恢復してから早や20年以上が経った。私は世話役を自ら買って出たことはない。しかし頼まれれば明確な理由がない限りお断りはしない。就職の世話、仕事上の斡旋依頼、縁組みの世話から野球場のボックスシートや大相撲の桟敷の切符の手配まで毎日のように何かの電話がかかってくる。私は私なりに全力投球をする。私のお力添えで当事者双方に喜んでいただけたらこんな幸せはないではないか。 |
卒業25周年記念アルバムより |