6組  前田  勇

 

 東京商科大学のゼミナールの薫陶は一生を支えている。
 私の入門したゼミナールは河合諄太郎教授の化学商品であった。河合先生は東京高商卒業後、ボストンエ業大学(MIT、マサチュセッツ、インステイテユート、オブ、テクノロジー)に学ばれた科学者であった。先生は、ゼミの門下生に自分の学問の後継者を期待しておられたが、私のような不肖の弟子にも不満を示さなかった。
 私が左手首の酷いリューマチにかゝって左腕が垂れ下ったままになった時、研究室でじっと両掌で私の手首を挾んで長いこと念じて下さった。その帰途、私は大塚駅から、うちに帰る道すがら左腕が頭より上に挙げることが出来た。

 私は不勉強であったが、大学当時先生は既に核分裂、原爆のことも承知しておられたようである。科学の弟子としての望みのない私に対して

般若心経と
観音経

 の訓じ方を教えて下さった。
 シベリアの凍てつく捕虜生活で死にそうな私の心身を支えたのはこのお経であった。

 戦後私が広島で大蔵省財務局の理財部長をしていた時、比治山の官舎にひょっこり先生が訪ねて来られた。アフリカのリベリアの大学での契約教授を終って帰国し、日本国内をパブリカ運転して回っているのです。とのこと。先生は話題がと切れては申し訳ないと思われるのか家内に対しても一生懸命話しかけられていた。そのドライビングの帰途、関ケ原近くの国道一号線上でトラックに追突、即死された。

 私ごとき者が、自由経済社会の最高責任者たる代表取締役社長の職に十五年も勤め得ているのは河合諄太郎先生におそわった。

「南無観世音菩薩」

 にある。
 鈴木栄喜君に催促されて、この原稿何を書こうかと思案していたところ、女房に「河合諄太郎先生のこと書きなさい!」と云はれたお蔭で起稿できました。

 




卒業25周年記念アルバムより