◎ はじめに
私は母校卒業後の四十年を、海軍約四年、教員十年、地方公務員二十六年と三種類の公職生活をしてきたので、そのハイライトを思い出すままに記す。
◎ 海 軍
大平洋戦争が始まった月に繰上げ卒業し、翌十七年一月、海軍予備学生となった。予備学生は少尉の一歩前であり、仕事は特信班といって、敵の通信を傍受して分析や解読をしながら、敵の作戦を判定するのである。この仕事は帝国海軍に昔からあったものではなく、開戦直前にできた班であった。学友の中には、海軍主計士官として、いきなり中尉に任官したが、主計長として艦もろとも爆沈した人も何人もいた。一橋寮の同室人、茂木君や、梶尾君なんかである。私は主計に不合格であったが、予備学生制度がはじめてできたので、どうしても海軍が好きだったので、これを受け合格した。特信班には中牟田君も合格してきた。私は海軍陸戦隊か駆潜艇乗組みかと思っていたが、語学力その他で特信班に廻された。
われわれが一期生であるが、小説家の河川弘之は二期生として入ってきた。彼が海軍ものをよく書くのは海軍にいたからである。
われわれ一期生は、予備学生の身分でも外地に出されたが、一年たって少尉に任官したら、どんどん外地に出た。むろん軍隊であるので、生命は覚悟の上であるが、母親一人の手で育てられて予備学生となり、この島には敵が上陸してくると判っていながら転勤していった京都帝大出身の枝光君や、沖縄作戦に出勤していった戦艦大和に出撃直前に乗組み、海底深く沈んだ大阪外語出身今村君の顔を思い出す。
私自身は、昭和十七年十月から十八年六月まで第二南遣艦隊司令部付として、ジャワ島のスラバヤから豪州に近いチモール島に派遣された。ここでは、デング熱とアミーバ赤痢にかかり、内地に帰っても当分下痢が続いた。終戦は大分で迎えたが、その日、特攻機で沖縄に突込んだ宇垣長官を毎年終戦の日に思い出す。海軍大尉になって八ヶ月であった。
◎ 光中学校教師
終戦の詔勅をきいて間もなく、私は郷里の山口県光市へ帰ってきた。小学校五年以上を東京ですごしたので、上京しようかとも思っ.たが、敗戦により、それ迄の夢も打ちひしがれ、田舎にくすぶっていた。当時の金で三千円ぐらいの退職金をもらったので、それを食いつぶしていた。
そのうちに、家の近くにある旧制光中学校で英語の先生が要るという話があった。私は昔から、海外雄飛の希望があったし、その準備もしていたが、敗戦国民は海外進出どころではない。中学生の英語を教えるぐらいの自信は充分あったし、自分の雄図を郷里の若者に継いでもらえばという気持ちも動いた。正式には、昭和二十一年八月三十一日付で月給百円で就職した。
私は教壇に立って教えることには苦労はしなかった。自分のもっている知識を生徒に教えていればよかったのである。それでは何で苦労したか。光中学校は、光海軍工廠の子弟のため、昭和十七年に開校したが、終戦後に硬式野球部をもった。私は野球が好きなもので、いつも放課後の生徒の練習を見ていた。当時はまだ独身であったし、家は近いので、部の面倒見をおしつけちれた。私もこれを了承したが、これが苦労のはじめであった。
一言でいえば、金集めに苦労したのである。高校野球は金がかかる。生徒会の予算では、年間経費の1/4ぐらいしか出ない。従って毎年3/4は外部から寄付を集めるのであるが、弱いチームには、なかなか金が集まらない。当時のボール一個が五百円であった。バットは七百円から千円ぐらいであったが、二日に二本は折れた。先日、最近の値段をきいたら、ボールは七五〇円、バットは七、八千円であるので、ボールはあまり値上げしていない。
私は一年後に、直ちに後援会を作った。そして、暑さにもめげず、自転車をこいで寄付金集めをした。これが、先生をしている間続いた。むろん手伝ってくれる先生もいたが、無関心の先生の方が多かった。大体、先生というものは、人に頭を下げる人種ではない。父兄に頭を下げることはない。私は、しかし野球部のために頭を下げとおした。
夏の大会は一本勝負である。大会前は学校内に合宿させ、父兄の差し入れもあるが、集めた寄付金でいい物を食わせた。生徒と父兄の大応援団を動員し、予選大会に臨むのであるが、この予選に敗れたときほど、人生の虚脱を感ずることはない。しかし、人間は面白いもので、三日たつと又、やる気が出てくる。そして新チームを編成して八月の灼熱の中を又、練習である。夏休みはない。
昭和二十六年七月から一年間、ガリオア資金でアメリカ留学をさせてもらった。この間は、野球と離れてはいたが、気にかかって仕方がなかった。この一年間は、家内と一歳の長女を残しての留学であり、初めての国への物珍らしさで気がまぎれていただけである。九月、サンフランシスコに講和条約締結のため、やってきた吉田茂全権を目の前に見て、くやしさというか、みじめさというか涙がこぼれて仕方がなかった。
◎ 地方公務員
昭和三十一年四月県教委に入れてもらった。学校と役所は大変りであり、ずい分、苦しみもあった。しかし、一橋精神を発揮してがんばってきた。この二十六年間に地方庁の商工畑の最高峯、商工部長を五年つとめ、現在の企業管理者を六年つとめた。いずれも、山口県では最長不倒記録である。この間に県内に百二十の企業を誘致したが、何といっても白眉は「東洋工業」である。
◎ 東洋工業と如水会
奇しくも第六十一回目の誕生日である五十六年三月二十七日、山口県防府市西浦に東洋工業が自動車組立一貫工場を起工し、それに出席した。
私は昭和四十五年四月から山口県商工水産部長になったが、化学工業に特化した県の工業構造をかえる一法として、自動車工業の誘致を考えた。昭和四十六年十月二十八日、私自ら、第一回の訪問をしてから、約半年、西日本各県との競争に打ちかち、東洋工業の進出協定の調印を行ったのは、昭和四十七年四月であった。
地盤改良その他準備を終えて、いざ起工式というとき、第一次オイルショックのため、東洋工業の経営が極めて悪化し、延期ということになった。それから丸九年、一時は、もう進出してこないのではないか、売却した用地を買い戻せ、他の企業を誘致せよ等々の声も出たが、私はひたすら待ちに待った。.
この間、主力銀行である住友銀行が再建に力の入れようは驚くべきものがあり、村井勉氏(我々の一期あと)が副社長としてのり込んできた。私は彼が予科時代から面識があり、昭和五十一年、商工部長はやめていたが、前からの経緯もあったので面会を求めた。そして県や市が東洋工業の進出に託す夢は、はかり知れないものがあるので、絶対に約束を守ってもらわねば困ることを伝えた。村井氏は、自ら車の売り捌きはもとより、労務対策にも力を入れ、工場から、期限を切って、職員を販売にふりむける交渉をしたようだ。これが一番つらかったと、その後、何回も会ったとき述かいしていた。
東洋工業は、世界にも珍らしいロータリー、エンジンを開発し、それを誇っていたが、油をくうというので、これが裏目に出た。
フォードとの交渉は昔からあったが、前社長の松田耕平氏はこれをけっていた。しかし、住友銀行の仲介で、資本提携をした。これは、今となっては、フォードにプラスになっているのではないかと思う。というのは、東洋工業は、同じ防府市の他地区に、フォード向けと思われる自動変速機工場を昨年七月着工し、今年中には輸出をはじめるくらい急いでいるからである。
ともあれ、村井副社長は在任四年間に、東洋工業の業績を急回復させ、住友銀行本社に専務取締役として帰任した。その代りというわけではないが、住友銀行から東洋工業の会長として如水会員の岩沢正二氏が着任した。いうなれば、今や、東洋工業と如水会は切れない縁となったというべきであろう。
以上みたように、山口県防府市に東洋工業の二工場が建設中であり、これがフル操業すると三千人の職員が仕事をする。そうすると、それと同数ぐらいの三次産業従事者がふえるので、家族もいれれば、約二万人の人口がふえよう。そして、東洋工業が利益をあげれば、その一定割合は、山口県に県税として入ってくることになる。即ち、県民の就労の場の確保と、税収の確保の一石二鳥を今や山口県の中心部で実現することになったのである。
◎ おわりに
私は昨年の還歴記念に自費出版した。そのあとがきに「これから古稀に向って一歩一歩進むのであるが、云いたいことを云い、やりたいことをやらしてもらう」と書いた。この記念文集が出るころは、公務員もやめて、自由な身になっていると思うが、七十歳古稀まではがんばらなければと思っている。
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