6組  矢守 勝一

 

 昭和十一年四月入学を許されて小平村の予科の一橋寮へ入寮した日の事を昨日のことの様に憶い出します。それぞれ南寮が二人中寮が四人北寮が六人部屋でした。

 私は中寮十六号室で真中の階段を上った直ぐ東の部屋でした。ストームは北か南の何れかの端から始りますから私達の部屋迄来る間に連中は大分草臥れて来て居り当方は直に飛び起きて電気スタンドを押入れにしまったり廊下側のガラス戸を外してしまったりして準備完了出来る良い位置でした。
 室長は二年生の添田久雄さん、あとは一年生三名高木哲夫君と野田宗造君と私でした。

 終戦の年の真冬のこと東京大空襲の直前であったと思いますが、高木君と大森駅のプラットフォームで会いました。同君は海軍将校の服装をしていましたが此方は国民服にゲートルの気が利かない姿であったと思います。此れから横須賀へ行くんだと言いますから軍艦にでも乗るのかいと聞いた処周囲を見廻し小声でもう軍艦なんか残ってないよと教えて呉れ戦況が其処迄悪化しているのかと初めて知って驚いた次第でした。

 野田君は伊豆伊東の老舗の温泉旅館の一人息子でした。大阪屋と言って江川太郎左衛門が天城の山を越えて江戸への往復の途すがらいつも一泊した定宿と云う由緒のある旅館でした。二年生になる時の春休み伊豆半島の一周旅行に誘って呉れ帰省を早い目に切り上げ大阪屋に泊めて頂いた。

 同家は伊豆箱根鉄道バスの大株主のため家族優待無料バスを持っていたから勿論私も無料でした。今なら道路が良くなり伊豆半島は一日で廻れましようが、当時は未だ川端康成の「伊豆の踊子」当時と余り変らない時代、一度山路に入ればつづれ折りの路をすれ違いの為に何回も待避して登って行った様に思います。

 行く先々の旅館はその温泉で皆一流で予め電話して貰ってあり、それこそ本当に下へも置かぬ待遇で恐れ入りました。確か三泊位して廻ったと思います。先々の旅館は何代にもわたって大阪屋から嫁に行ったり養子をもらったり、或は女中頭が見込まれて女将になったりした家で「大阪屋のおばっちゃまとその御学友」ということで大臣や知事さんが泊るという部屋で黒塗りの高脚の膳の左右に所謂二の膳がついて大きい鯛や伊勢海老の塩焼きが一匹なりついていて勿論宿賃など一銭も取りませんでした。

 その頃は野田君の父君も御健在で同君も一番幸せの絶頂だったのかも知れません。後程御存じの様な事情で先祖からの旅館も人手に渡さなければならなくなり、御心労の果一度に髪も真白になられ本当に御気の毒でした。

 昭和四十四年頃野田君が杉並区にお住いの時一度お訪ねしたのがお会いした最後でした。
 高木君も野田君も今は故人となられこの世には居られません、同室三人の一年生の内二人も此の世になく病気ばかりしていた私が未だどうにか生きて居られるとは人生皮肉な気がします。

 今でも眼をつむると小平村の櫟林の緑と玉川上水の逍遥の路が瞼に浮んで来ます。
 高木野田両君はじめ故人となられた十二月クラブ会員の方々の御冥福を謹んで御祈りします。

 



卒業25周年記念アルバムより