7組  麻生 泰正

 

 人生のたそがれのなかで身心の衰えは覆うべくもなく、去りし日は茫々として記憶も定かでなくなった。
 これからは縁に連なる人々をいとしんで、残された日々を大切にしたいと思う今日此頃である。
 「文集」発刊を機に想うことは矢張り半世紀に遡る武蔵野を背景とする激動し始めた歴史の中で過した青春の日々である。予科出と異り、一昼夜をかけてはるばる上京、国立の大地を踏んだ日の感激は強烈であつた。

 父は戦後に早く他界し、母は八十九歳の天寿を昨五十五年三月に全うした。その遺品のなかに一束の古手紙が大切に保管されてあった。それは大学入校以来軍隊時代を含めて父母に出した私の手紙であった。思いもかけず自分の青春時代の記録でもあり、これを読んだ今の私より若い時代の父母の心情をあれこれと推し測り、既に亡き両親を偲ぶよすがとなった。

 稚拙な文章と文字であるが、毛筆、巻紙の封書の交った、「父上様、母上様」に始まる、時には候文で綴られた手紙は既に現在の感覚からすれば正に畳の下の古新聞程度のものであろうが、少くとも私にとっては「自分の手紙」であり、父母への追憶に繋がる確かなモニュメントである。

 大学時代のは他聞にもれず多くは送金依頼である。予定外の出費を尤もらしい理由をつけての依頼と受領の通知である。そのいくつかの私信の一部を敢えて披露して、自分の過去を先づ私自身が振り返って見たいと思う。

 さて十四年春、晴れて一橋生となった入学式の報告 (以下部分のみ引用)

 「昨十一日入学式がありました。兼松講堂と言う立派な講堂にて、学部、予科、専門部、養成所の新入生が集合して、厳そかな式が挙行されました。上田学長の朴訥とも言えるが真摯な訓辞があり、そのあとで宣誓簿に署名しました。自分の努力がやっと実を結んだわけです。その間の父上始め皆様の熱誠なる御助力を改めて感謝し御礼申上げます。東京の桜もここ一週間と言うことです。今度の一年生は二四七名とか聞いて居ます。学長が『諸君は多摩川の砂利の如く選び出された、天下の秀才』と言われた時、九州の田舎からと思えば夢の様です。商大は商科系統の最高学府で、学ぶもの僅に二五〇名ですから恵まれています。多摩川の砂利が天下の秀才ほどに得難いものであるか私には判りません。あとで平田さんに聞いたら砂利電車なるものが特にあるほどだから天下の砂利だろうと教えてくれました。
 下宿もやっと落着きました。四畳半ですがこれから何年か起居すると思えば帰ってもホッとします(参考までに、始めて汽車のパス荻窪、国立間を買いました二十九円十五銭です)。」

 同じころ
 「只今金二百円也の振替確に受領しました。誠に有難う御座居ます。私も至極元気に通学致して居りますから御安心下さい。今日十時半-十二時半、一時-三時の二課目が休講で正午まで学校に居て図書館の書庫を見て帰りました。商大生は非常に勉強するようです。二十万冊、一年約二万円の書籍を購入して居る丈に立派なものです。私も負けないように頑張るつもりです。昨日も神田の古本屋で若干の教科書と六法全書、若干の辞書を購入しました。一九二五年版ですがオックスフォード辞典を買いました。…」

 在学中にこの立派な図書館を利用した記憶はなく、横側にあった事務室の女性二人と仲良くなり、悪友(特に名を秘す)と共に茶臼丘に一泊旅行したことは忘れていない、尤も極めて清純なハイキングでありました。

 さて堂々と報告できる費目のなかに一年間の授業料その他がある。某日その発表を知らせている。当時の物価を偲ぶよすがに
一、授業料         六十円
一、教練費           五円
一、一橋会々費        五円
一、同本科会入会費     一円
一、本科会々員費      五円
一、消費組合基金      五円
一、一橋論叢費        二円
     合 計      八十三円也

 尚、下宿料二十六円也、その他新聞代一円二十銭、洗濯代、超過電灯料で二十八円位になります。

 十五年になると世相も厳しさを加えつつあったが、私達は言わば隔離された学生生活のなかで若さと自由を満喫していたようである。例えば親戚、知人との交誼を楽しみ、田中館博士の講演を聞きに行ったり、展覧会、各種会合に出席したり楽しく過していたようである。

 「御父上は独歩、露花のものがお好きでよく読んでおられ、武蔵野にも憧憬されて居られましたね。その武蔵野で第二学年を迎えました。御上京の機があれば、保谷村をご案内致します。 (注、父母共一度も上京せず)

 「その露花夫人愛さんは今は六十七歳とかで独り寂しく暮して居るそうです。石丸の徳子さんが一緒に行かないかと誘いがありますので近く訪問したいと思います」
 それでどうなったかは記憶にない。

 未だ商大生として、特権のようなものがあったと見え
 「今度入学した朝鮮の学生が、今まで連絡船の刑事から、呼びずてにされたそうですが、今度は名刺を出すと丁寧に劉さんですかと言われ気を良くして居ました」
 とか、
 「先日、新宿のオデン屋で飲んで居た処刑事の臨検がありましたが名刺を出すと何も言わず、傍の私立の学生には一時間位説教をしました」
 とか、新宿の紀の国屋で数人の友人と会合した席に見知らぬ男が黙って這入って来たが暫くして静に退出したとか書かれてある。この年の学年委員に指名されたことも
 「これは全くあてづっぽうの任命でしょうが、麻生はABのA、アイウエオのアで良かれ、悪しかれですが、迷惑な場合が多いようです」
 と不服を言って居る。

 「今年こそは頑張ります」
 と特に心境を強く表明してあるのは親戚の某が松田学生課長の知人であり、彼を通して私の一年の成績不良を父が知る処となり叱責の手紙に対する返信のなかに見える。

 この年、盲腸の手術(実は一級下の同宿人が真正盲腸で手術、立会って自分もその気があると思い手術)、三五〇円の送金依頼が見える。(即ち送金があったので手術したことである)。

 さて、いよいよ十六年、食糧もボツボツ窮屈になり始め、水不足の夏であったようで、
 「毎日喰べる米は外米七割から六割、ウルチ1-2割と言われ、冷えると箸にかかりません。カサカサで皆さんなら到底喰べられそうにありません。私も近頃は馴れて来ました。」
 とあり、続いて主食に不自由のない郷里を羨やんで居る。

 また裾野の演習では食糧、菓子の豊富なことが記されいる。また、翻訳のアルバイトで二〇円貰い、得々として報告している。紙数がないので省くが、大学新体制でゆれ動く所謂学生運動のハシリに参加し、文部省や大臣に面会に行くと書いてあったりしている。
 この年はまた恒成勲君、故松本信喜君と共に夏休みを利用して蘭印(インドネシヤ、マレー)方面の旅行をし、費用三五〇円報告書を海軍に提出したり、陸軍関係のビルマ地誌を翻訳したりしている。

 下宿も変り、母娘二人の素人下宿で四〇円、安い方だと報告して居る。
 繰り上げ卒業となり十二月卒業、十一月二十八日まで授業、十二月八日は試験の日であったと思う。
 十月十六日の手紙によると、
 「ともかく、次ぎつぎに発表される非常時立法のため、私達の将来は、最早や予測し難く落ち着かざるものがあります(送金の礼のあと)。明朝より秋深かまりゆく那須高原を縦走して、東京生活、学生生活の最後の想出とします」

 読まれた方々には極めて関心のない内容になりましたが、三年足らずの国民生活の一部を父への便りを通じて感じて頂ければ幸いです。私自身想出となり、失われた記憶を取り戻す手紙は未だ未だありますが、以上にて。

 


卒業25周年記念アルバムより