(一) 一枚の端書
今年も又一葉の端書が一月下旬に舞いこんで来た。文面に日く、
第七回六一如月会開催通知
「寒中お見舞申上げます。春まだ浅き昭和十七年二月お召に応じて入隊してから四十年に近い歳月を閲しました。今回は左記により開催します。一、今回のゲストニ、護国神社参拝三、日時、場所、会費等あるも省略」
補足すると、六一は和歌山歩兵第六十一聯隊、この聯隊に昭和十七年二月(如月)一日に学卒後一ヶ月で現役入隊し、一期の検閲後九州久留米の予備士官学校に入校し、見習士官を経て任官した同期生の年次会の案内である。出席者は大体三十名前後であるが何れも酒豪ぞろいの事とて、開宴と共に痛飲放歌、高声止る処を知らず、回想は直ちにタイムトンネルを逆行して四十年前に遡る。そしてそこには強烈な印象と感覚に裏打ちされた死生観の漂う世界と共に、未だに何とも理解し難い非現実性に裏打ちされた夢寐の世界とが共存している様に想えてならない。
(二) 昭和十七年から十八年へ
甲種合格で十七年二月一日和歌山歩兵第六十一聯隊へ入隊、同年五月より十一月迄六ヶ月間久留米陸軍予備士官学校へ派遣、同年十一月任陸軍兵科見習士官、十八年十月任陸軍少尉、此間、初年兵時代の個人罰共同罰の体験、被服検査に際し員数合せの為心ならずも「汝盗む勿れ」の戒律を破った事、予備士官学校での死闘的訓練、任官後僅かの期間ではあったが回復した一種の自由の息吹き等々想出は数限りなくあるが、ここでは省略する事とする。
(三) 昭和十九年から二十年へ
十九年春大阪第四師団へ暗号係将校教育に派遣(約二ヶ月)されたが、之が其後の軍隊生活のコースを支配する事となった。
因に、習得した当時の陸軍暗号文は次の様なものであった。
先づ暗号書(陸軍四号暗号書-略称陸四其他)によって通信文を四桁の数字群に換字し、(五六一〇、三七二九…一・)之にやはり四桁の無作為調製による乱数書の乱数表をアレンジして全く無意味なものに変形する。この変形は加算によって行う。そしてこの変形された数字群を打電するのであるが、ミソはこの乱数表の使用開始箇所であってこの鍵は電文のどこかに隠されているという訳である。従って暗号解読はこれとは逆に把握した電文の中から乱数表の鍵を見付け出し逆に減算を行って出た生文を暗号書という辞書によって成文化すれば良い訳である。
かくして十九年五月原隊復帰いよいよ第一線出陣の待機をする。
十九年六月待ちに待った「出征」通知が来た。編成地は大阪、酒井大佐率いる処の酒井部隊本部の情報及暗号将校が任務だった。部隊は聯隊本部及混成の三ヶ大隊よりなっていたが編成途次二名の一橋出身者とめぐりあった。一名は暗号班の部下の神田君であり、他の一名は阪下喜三主計少尉であった。然し乍ら何分勿々の間の事とて、ゆっくり共に語らう時間もなく漸く編成完了した酒井部隊は七月初旬とおぼしき頃、某日深夜枚を含んで大阪駅より軍用特別列車に乗車一路西下の途についたのだった。
行先は沖縄らしいという事はほぼ判っていたがこれは軍事機密である。やがて一夜明けて関門のトンネルをくぐり門司で下車、ここで乗船前の猛烈な訓練が始まった。上陸作戦訓練だ。約十日の後訓練終了、集合の命令に接し、いよいよ之から沖縄行かと決意を新たにした途端、どうした事か酒井部隊は早急な命令の変更の下、又々乗車の上山陽線を逆に東進し乗車地の大阪もノンストップ、そして一昼夜の後横浜でやっと下車の許可がおりた。
この時まっすぐ沖縄に行っていたらそれは神のみぞ知る事である。さて沖縄に代る行先は硫黄島か八丈島か。ともあれ横浜での十日間諸準備はすべて完了した。万一輸送船が撃沈されても持参の暗号書は何よりも優先して千尋の海底に沈めなければならない。之も準備OKだ。何もする事がない。
某日思い切って当時の陸軍大臣陸軍大将木村兵太郎閣下を訪問した。木村大将は小生の叔父を通じて、姻戚関係になる訳であったが勿論その時迄、会った事はなかった。
「伊丹培雄の甥の伊丹英雄陸軍少尉であります」
と不動の姿勢で挨拶すると
「何しに来たのか」
と一言、
「このたび某方面へ出征しますので御挨拶に上りました」
と云ったきり後は話の種もなく家人と少時話をして早々に退出した。木村大将は終戦後戦犯として絞首刑により一命を絶ったが未亡人は現在尚健在ときいている。
そして八月上旬遂に乗船一昼夜で八丈島に到着、無事上陸した。八丈島は伊豆七島の最南端、当時健在だった硫黄島についでの本土防衛の重要拠点だった。昭和十九年夏頃はそれでもまだ島民も五千人位は居り水田不能の為米は出来ないが、火山土の上にサツマ芋、ジャガ芋、里芋等は豊作であり、又野菜も柑橘もありそして牧畜も盛んで、肉、牛乳などには不足しなかった。又酒も島の名産芋焼酎は珍味であり一度、九五度という生の焼酎を島民と茶碗で三回交換飲み干した処、前後不覚となり翌朝迄眼が覚めなかった記憶がある。そして八月下旬やっと落ちついた処で故郷和歌山の母宛てに簡単な葉書(軍事郵便)を送った。軍事郵便は厳重な検閲があるので滅多な事は書けないが、母はこの葉書文の終りの三行の頭文字で息子の出征地を感じとつた様だった。
端書裏面
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八月も下旬となりました。毎日
丈夫で軍務に精励しています。
島君によろしく伝えて下さい。 |
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この平和だった八丈島も戦局不利が段々と深刻化する中で、十月には島民の内地への引上げ疎開が始まり、やがて島民は必要最少要員のみとなり、之に代って陸海守備隊要員は見る見る急増し年末には二万人を越す大部隊にふくれ上った。常時六、七千人だった島民の約三倍の兵隊、先ず第一に食糧が不足勝ちになる。
それに毎日の仕事が戦闘訓練ならぬ穴堀りの連続。地下五米より十米最深部では二十米に達した処もあった。この総延長約六万米、島中が穴だらけになったのではないかとさえ思われた。そして二十年二月遂に硫黄島が陥落するや戦局は一気に末期的症状を呈する様になり、敗戦への一本道を進み出したのであった。
この状況は内地、外地を問わず顕在化し先ず内地からの食糧等の補給路は米潜水艦の跳梁の為ほぼ完全に絶たれ、この為自活目的の農耕班を編成したが、これは勿論焼石に水であり又僅かの海の幸を求めて小舟艇で海へ乗り出せば米戦闘機の為に無残な餌食となる。そして硫黄島を基地とするB24の爆撃機は編隊を組んで一日二回島の上空を通過して内地の爆撃に向うのだが我々はこれを「定期便」と呼んだ。
この定期便による往復爆撃と敵戦闘機の急降下攻撃がくり返えされる。然し乍ら坑道が完成するにつれて、退避要領も板につき犠牲者は極度に少なくなったが反面、この様な希望薄き毎日の連続は、日に日に加わる戦局の後退と相まって島艇防衛にたづさわる我々に一様に、暗澹たる気持ちを与えずにはおかなかった。そしてサイパン及硫黄島よりの爆撃は日を追って熾烈化し、然も敵艦隊も近海に出没し始めたとあって我々の水際戦闘及び坑道を利用しての戦闘対策も益々真剣味を帯びて来た。
昭和二十年三月〜四月内地では東京がそして大阪が相ついで猛爆撃された。五月〜六月、食糧は益々欠乏し雑炊の連続で一日五合給食となった。暗澹たる毎日の連続ではあったが、硫黄島の次は八丈島へやって来る(硫黄島脱出参謀の言)事は目に見えていたので、我々は何んとしてでも祖国防衛の第一線を死守せねばならないという至高精神が軍規を支えていたものと思う。
六月〜七月、本土爆撃は大都市より中小都市へと目標を拡げ、七月七日には堺市及和歌山市が爆撃され両市共殆んど全滅とのニュースがはいって来た。和歌山市には両親弟妹六人が住んでいたがどうだったろうか問合わすすべもない。
そして八月十五日終戦、この当日の事は余りにも多く語られ記述されているのでここでは敢えて記さない。
とにかく米軍は意外に近く迄来ていた。二日後上陸して来た米軍に対し島嶼防衛司令官(陸軍少将)は軍命令に従い武装解除の上降伏し全員丸腰となった。
陸軍中尉の階級章伝家の宝刀と昭和刀の二本、拳銃其他すべてをなげ出した時はさすがに涙がこぼれて来た。暗号書類はもうこうなっては余り関係もなかったがとにかく一件焼却してしまった。
戦いすんで昭和二十年九月復員業務も整々と進み出した。然し乍ら従来の階級差別がなくなっているので、永年の軍隊規律に対する反動がどの様な形で勃発するやも予想が出来ない。
そこで気分転換策として野球・マラソン等スポーツを率先してやった。十月の八丈の秋空はあくまで青く、過去の暗いジメジメした抗道内の体験を一気に吹きとばし、「そうだ、今日の終りは明日の始りなんだ」と自分にも云い聞かせ又皆に話しもした。部隊の復員を、ほぼ終え伊豆、伊東経由無蓋貨車に乗せられて和歌山へ帰りついたのは年末に近い頃だった。
和歌山では幸い家族全員が無事で再会を祝する事が出来たが、戦災の為住むに家なく翌年日鉄大阪の社宅に世話になる迄住宅問題では難渋を極めた。
戦後余録
一、叙従七位昭和十九年付五十年受領
二、軍人一時恩給約二万円也
結びに故郷和歌山中学校の同窓小林朗君作る処の「大正生れ」の歌詞の一部を借記して、本文を終ることとする。
一 大正生れの俺達は、明治の親父に育てられ、忠君愛国そのままに、お国の為に働いて皆んなの為に死んでゆきや、日本男児の本懐と覚悟を決めていたなあお前 (中略)
四 大正生れの倭達は五十、六十のよい男
子供もいまではパパになり
可愛いい孫も育ってる
それでもまだまだ若造だ
やらねばならぬことがある
休んじゃならぬぞなあお前
しっかりやろうぜなあお前
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