7組  伊豫田一夫

 

 それは昭和五十年、五十七歳の七月二十一日の深夜だった。突然胸を締めつける物凄い痛みに襲われ私は床の中で七転八倒していたが、深夜に拘らず来てくれた近所の医者の連絡で急拠駆けつけて来た医師と看護婦同乗の救急車により東京女子医大の心研(心臓血圧研究所)に運ばれ、そのCCUの一室のベッドの中で約二時間後に漸く人心地がついたのだった(第一の危機脱出)。
 病気は心筋梗塞だった。前日二日間は沖縄の海洋博の前夜祭に妻と共に参加していたが、その間二、三回胸を締めつけられるような痛みを感じたものの少し休めば痛みもなくなる状態なので、まさか心臓の発作とは夢にも思わなかった。これこそ狭心症の発作で、ここで入院して治療に専念すればよかったに違いないが旅先だったことと当時は心臓病が余り騒がれていなかったこともあり帰宅して少し落着けば大したこともあるまいと考えていた。今から思えば迂闊千万だった。
 入院してからは直ちに絶対安静で付添の家内以外は一切面会謝絶の措置がとられた。 (先輩の故大平首相の場合は連日官房長官が会談し又新聞に元気な姿を見せる写真の為にベッドから上体を起す等正に救命無視の行為が行われており、よくも医師が許したものと不審に堪えない。)
 一応一週間のCCU入室で第二の危機を脱したとの判定が下り一般個室に移ることが出来たがその直後に再び胸に疼痛が出てCCU室に逆戻りとなり、以来何時心不全で死ぬか判らぬ重症患者として三ヶ月間、心研でも例のないCCU室の長期占領者となってしまった。これは心筋硬そくの外に左心室の壁の一部が薄く瘤状にふくらんだ異常病態の心室瘤(場所は違うが石原裕次郎の動脈瘤と類似か?)となった為で救命の為にはこの部分を切りとる以外になく八月二十九日夜急拠この手術が行われた。

 手術は成功したのだがそれ迄の間およびその直後も合せて不整脈が頻発しそれを直す為の電気ショックを百回以上も、時には一日に五回も六回も浴びその激痛に耐え続けねばならなかった。(この為胸の表面は一面真黒に焼け焦げてしまった程だった。)
 その他、点滴に使える血管が少くなり両手両足到る所の血管に針を入れ込まれる苦痛にも耐えねばならなかった。しかし幸いにも手術後約一ヶ月たった時、神の助けのように偶然の投薬が不整脈を押え込みそれからは一気にリハビリテーショソの過程に入り第三の危機も乗り切って同年十一月末に退院することが出来た。

 この四ヶ月に亘る苦しい闘病生活を通じて痛感したことは「いかなる場合も希望を失ってはならぬ」ということだった。
 私の退院は「九死に一生」に当るようで治療を担当した医師団からは奇跡の生還と言われたことが生々しく思い出される。

 考えて見ると私が心筋硬そくに追い込まれたルーツがはっきり判る。当時私は会杜(三菱重工業)の本社営業担当部長として週に三日位は客先等との外食(宴席)があった。従って第一に美食によるコレステロールや脂肪分のとり過ぎの上にアルコールが加わり体重も七〇キロを超えてしまっていた。次に悪いのはタバコの吸い過ぎだった。一日二箱では足りず三箱目に手をつけることも度々だった(宴席の時は特に)。
 この外に関係するのはストレスである。私の場合会社関係では余りなかったと思うが当時私は会社退職後の永住の地を私の出身地であり先祖代々の墓地のある愛知県岡崎に定め自ら設計した家の新築にかかっていて、大工を初め諸々の請負業者に指示する為に月に二回は東名高速を車で往復して居り、これが相当神経を使い旦つ疲労を蓄積していたと思う。

 さて当然のことだがこの病気により私の人生行路は否応なく変った。心臓の一部切除による能力の低下と不整脈防止の為には営業のような第一線業務は禁物で、ストレスや疲労の少い仕事への転換が必要だった。そしてとりあえずは社会復帰が完全に出来る為の充分な療養と心臓食に切りかえての体力作りの期間が必要だった。これらは会社に願い出て責任の軽い調査役に配置転換をして貰い、約一年余を体力回復に当てることが出来誠に幸いだった。

 次に私の人生観に与えた影響だがこれは殆んどなかった。と言うのは既に私は住むべき永住の家を勤務地へは通勤出来ない遠隔地に作っていたように退職後の第二の人生は宮仕えから離れた自適の人生とし、それに多くの楽しみと期待をかけていたからだ。

 一生を働き蜂で終りたくない、折角の人生は余り老い込まず夫婦元気な内に好きなように楽しみたいというのが若い時からの願望だった。だからこの病気によって私は反って早く会社生活から別れたい気持が固まり、六十歳には少し早い昭和五十二年六月に退職、永住の地の現在地に移転したのだが毎日通勤していた生活が一挙になくなると反って悪影響があるという医師の意見があって会社の方で現住地周辺の自販会社の二社にそれぞれ月に二、三日出勤する非常勤の監査役になる処置が採られた。
 しかしこれは給与等で迷惑をかけるのと数少ない出勤とは言え好きな時に好きな所へ行けない不自由があるので丁度二年の任期と共にやめさせて貰い、今はほぼ月一回のドライブ旅行と病気後本年で五年を過ぎたので医師より、もう海外旅行もよかろうとの許可があり念願の家内同伴の海外旅行を年一回は実現しようと計画を進めている(本年は五月二十九日より米国旅行に出発)。

 九死に一生を得たこの病気以後の人生は正に余世であり、この余世の楽しみとしては前記した海外・国内の旅行の外に生産と収穫の楽しみのある家庭菜園にも力を入れている。

 家にいる日で雨が降らぬ限りは、ゆっくりパンとミルクと野菜サラダで朝食をとった後、九時半頃から野良着を着て芝生の庭に出る。もう孫が芝生の上で待っている。予め別世帯式に設計した母屋の二階には長男一家が同居していて目下娘一人の孫だが六月には第二子が生まれる。やがて家内も庭に出て来る。ここで揃って一段低地となっている我が自慢の菜園に出る。菜園の周囲は金網塀だがその内側は「貝塚伊吹」で囲い更にその内側には果樹を並べて植えてある。梅、桃、柿、栗、ミカン、ブドウ、イチジクの外に果樹ではないが桜とバラを植えている。この為菜園としては大分面積が押えられるがそれでも一隅には苦労して育てたアスパラ群が元気で、残った面積の半分程を当てて作る「さつまいも」の収穫は果実やアスパラの収穫と共に、東京にとついだ娘や近くの親戚への贈物に当て喜ばれている。
 この菜園の管理は消毒や雑草とりを含め一年を通じて相当の労力を要するが成長や収穫を楽しみに無理せずのんびりと自然に合して行動するようにしている。尚午後は用たしを兼ねて運動の為成るべく徒歩で街に遊びに行くことにしている。

 昔は無病息災と言われていたが最近は一病息災と言うようである。我が余生がどこ迄永続出来るか不明であるが今暫くは息災が続くよう祈るや切なる次第である。

 末筆ながら同病で倒れられ一時は元気になられたにも拘らず惜しくも逝去された故篠原英夫氏の御冥福を心より祈り上げます。