7組  石井幹一郎

 

 東京市日本橋の商家の長男に生れ、東京府立第一商業学校、東京商科大学附属商学専門部、同本科といづれも商人の学校に学び、太平洋戦争宣戦布告の当日、一九四一年一二月八日に徴兵検査で第一乙種合格、同二七日に大学繰上げ卒業、翌年二月一日に相模原の電信第一連隊に入営した。
 義務教育の終った一九三一年にはじまる満州事変に端を発した十五年戦争の環境下にあり、フアッシズムの波は次第に高まったものの、僕の学生生活は、現実の波間にただよって、強い圧迫感を感ぜず、抵抗心も薄く平凡の一語につきた。専門部在学中は白票事件や粛園事件の余波にもまれつつ、当時の少壮教授、上原専禄、杉本栄一、常盤敏太、三教授の人格と学風に深い感銘をもち全面的に敬慕の念を抱いていた。
 在学中は歴史が好きだったので、まず伊豆公夫や渡部義通の唯物史観発展段階説(「日本歴史教程」白楊社)による時代区分を上すべり書いたら、上原先生にコッピドクやられ(上原先生稿「民族生活の特異なる展開」・・・一橋新聞一九三六・五・二四参照)歴史学研究方法を教えていただき、少しでも原史料に基づく当り前の方法で、三年生の夏、専門部会誌に「仏教伝来史の一考察」と題して投稿したが、皇紀をつかわなかったことが、ささやかな抵抗だった。そして大学本科にやっとこ入学した。その時大学教授になられた上原先生のゼミナールを志望したが、ラテン語の勉強が手始めとあり、語学に弱いので頭を下げて引き下り、専門部時代にご厄介をかけた常盤先生のゼミに入って、ラードブルッフや牧野英一の民法、刑法等を概論的に学んだものの、政治法制史も法学の分野だとし、一年生の時「天保改革の一側面」と題した拙論を、本科会「ヘルメス」の懸賞論文に応募した。
 そのせいでか、一橋学会の責任者を引き受けさせられた二年生の時、憲兵が自宅にやって来た。治安維持法以上の超法的権力を持つ憲兵に僕の書斎の発禁書を見つけられて、アカと断定されたら万事休すことになるので、玄関わきで応対したら、新体制下にあっては一橋学会の名称は不適当とすごまれ、問答無用の時代ゆえ、報国団研究部に改称せざるを得なかったこともあった。

 さて、常盤ゼミは法学部門だから卒業論文のテーマは法学的なものとせねば格好がつかぬので、前からあつめていた六-八世紀の日本史の史料や論文を材料にして「僧尼令」を書いた。
 しかし、繰り上げ卒業のため、浄書の余裕なく、妹に浄書製本をたのんで営門をくぐらざるをえなかった。従って常盤先生に届けた僕の卒論は見ておらぬし、現在の一橋大学図書館に納められておらず行方不明である。
 どんな史料を吟味して書いたのかは正確に覚えておらず、書斎も蔵書も東京大空襲のとき全焼しておるので、まぼろしの卒論になった。ただ上原先生に学んだこの国の文化摂取の特殊性にそって、印度の原始仏教が支那に入り、漢訳経典が百済や新羅をへて日本で混成され、唐の僧尼令を模倣した日本のそれとがどう違って運営されたのか、何故ちがわざるをえなかったのか又、僧尼を取り締まる国家・権力の具体的現象が世界宗教である当時の仏教にどんな形であらわれたのか。仏は国家の上位にあるに拘らず、僧尼令による統制の矛盾が日本仏教にどうあらわれたのか。国主や上層貴族に外護された和唐の仏教を中心とした文化比較とあり方の相違が如何に展開したか等を拙述したと思うが、今となってはすべて忘却のかなたに消えている。
 つまり、僕の卒論は在学中の蓄積を集成することにより一つの区切りをつけたものであって、どんな問題を提起したのか、卒業後の研究の進めかたをどう組みたてるつもりだったのかということになると甚だ心もとないということになる。

 さて敗戦後、マライで捕虜となり北部馬来勤労第二十二大隊第三中隊長の地田知平中尉(現一橋大学名誉教授)の部下の乙幹曹長だった僕・・・専門部、本科とも軍事教練は出席不足もあって不合格、兵適扱いとなったが幹候試験を受けさせられた結果、地田は連隊トップ、僕はドンビリ合格でやる気のない乙幹は、共に一九四七年六月末、シンガポールより佐世保に引き揚げ六年ぶりに裟婆の世間にもどり、その後約三十年の会社勤めも一九七七年三月末に停年退職を迎え、五斗米に膝を屈した生活とわかれ、積ん読書物をひもどき今まで空白だった学習と思索の時間をたのしみにしていた。
 併し、その段階に入ると敗戦後の学界の変遷や研究者の思想的背景なり学統については五里霧中であって、所謂大家碩学や有名人、新進少壮の研究者の思想を主体性をもって認識するにはブランクの期間が長かったが、それをうめることなくては戦中派の僕の卒業論文は書けないし、何を目標に人生の卒論テーマを立てるかは定まらなかった。

 前置きが長くなってしまったが、一九七九年六月一六日朝日新聞夕刊で上原先生が三年八ヵ月前の一九七五年一〇月二八日に京都ですでに死去されておられた第一面記事を見たときは全く自失滂沱の情に陥ちいった。もとより門下生でない僕・・・門下生だったら当然絶縁を申し渡されておっただろう・・・でも、先生の「死者・生者」や「クレタの壷」を斜め読みしており、先生が京都のどこかに隠棲されておられること、そのおすまいを出版社に問いあわせたがわからぬままだったし、今さら先生をお訪ねすること自体忸怩たる気持をもっていた。
 併し理論社から昔に送られてあった先生の「平和の創造」をめくって見ると、先生の自筆で石井幹一郎様恵存と書かれ先生の署名があり、更に先生の近影が入っておることを見出した時は、まさに霹靂に打たれ身も心もふるえあがるのをどうすることもできなくなってしまった。
 茫然としているうちに妙な連想だが、藤村の「夜明け前」の主人公青山半蔵の死がよみがえり、平田没後門人が明治維新ののち国学の理想にやぶれた姿が浮びあがり、木曾路の旅に出て青山半蔵(島崎正樹)の旧蹟をたづね、彼の死を考えつつ旅ごころのまにまにようやく心を落ちつけることができた。そしてなくなられた先生におわびするため、七月一日に洛北の西賀茂小谷墓地をたづねて墓前で合掌したが涙のとどまることなく茫然と立ちすくむことしか出来なかった。
 「妙 上原専禄、妻上原利子」の文字を見つめているうちに、僕はこれから何をすればよいのか、なんのために僕の人生があるのかと思っておると自然に目標がさだまってきた。それは先生の学問には到底及びはしないが、自分なりに先生の思想と実践に心をひたして行くほかはないときめざるをえなくなった。それには先生の書かれたものや先生の話されたもの等を集めつくし、敗戦後の歴史の流れを背景にして、それらを色読することしか道はないのだ。どこまで色読出来るか、どこまで先生の世界にせまられるかはその後二年たった現在でもわからない。
 先生のなぐりこみとつっばなしに右往左往するのは覚悟の上だ。併しその手始めとして先生の著作等をリストアップし、それに関連する文献を手当り次第に集め、僕なりの覚え書を作り、それを土台として僕の卒業論文を書くつもりだ。それを提出する先は、墓下の先生以外にはない。だが先生はキット不合格として却下されるだろう。それでもよい。

 話が飛躍するが、それにつけても自由民主党の長期政権は国民主権の民主主義政体をないがしろにし権力の座に腰をすえ、平和憲法の改正をあおり立て、憲法を守ると言いながら仮想敵国を想定し有事立法を立案し、愛国心養成と称し無垢の子供達を洗脳するため、教育基本法をないがしろに検定の圧力を強め学習指導要領で教師をくるしめ教科書をゆがめ、非核三原則を嘘でかため、国を守ると称して自衛隊と米軍と連合演習をして漁民をくるしめ、米の原潜は日本国民をあて殺しにし、又軍拡を意図しながら靖国神社に大挙して行き戦争でひどい目にあった戦死者の霊が何も云わぬことをよいことにして靖国神社法を準備していることが戦死者にわびることなのか。石油ショックを理由に死の商人どもが武器輸出を主張したり、徴兵令を臆面もなく発言し、軍需利益を追求することが平和国家を祈念する一般国民及び子孫や原爆にたおれた霊につくす道なのか。

 上原先生におこられるだろうが、最後に敢えて言う。この記念文集の檄の冒頭に「建国以来二千有余年」とあるが、東京商大で、三浦、上原、村松、幸田、川上さんから日本国家が成立して二千有余年と教えられたのか。時代錯誤も甚だしい。
 太平洋戦争で戦火にたおれた学友の霊をともらう生存者われわれは、二度と戦争はしない決意を誓うのが学友なりしものの道ではないのか。葬式仏教に堕した坊主の読経は回向ではない。現実の世界の梶を世界の平和共存の理想にむけて進むのが被爆敗戦のなまなましい教訓ではないのか。日本国憲法前文の最後にある「崇高な理想と目的を達成することを誓う」と共に、学問思想の自由、表現の自由のため戦中派学徒たりしわれわれは平和(軍備増強による自衛力の道ではない)と独立(安保による核の傘の下ではなく、自主憲法制定のことでもない)を守るため、残りすくない人生に生きるのがつとめであることを確信して筆を擱く。