7組  岩本 治郎

 

 大学卒業四十年、この世に生を享けて六十三年、『往事渺茫すべて夢に似たり』とは云うものの、反面、或る時代、或る事柄に就いては不思議にも昨日の出来事の如く深く脳裡に刻み込まれて居る様でもある。
 このたびの幹事さんの御云葉により想い出すまま、次の順で記させて頂くこととしよう。
第一 一橋への憧れ
第二 入学と卒業前後の慌しさ
第三 国立生活の想い出
1.交換息子 2.専門部無試験入学運動 3.父の卒業論文 4.筧憲法と法律の独習 5.井藤ゼミ

第四 四十年の歳月と感慨
第五 禅書のおすすめ

 第一 一橋への憧れ

 とに角、私が初めて一橋に憧れの念を抱き始めたのは随分古い時代のことであり多分十歳前後の昔に遡る。と云うのは亡父啓治は明治四十四年専攻部卒業と同時に教壇生活に入り、去る昭和四十七年天寿を全うする数年前に至る迄丸五十八年間の余、学校教育に専念した。従って家庭に於ける父の話題は自然、郷里の中学時代、一橋の学生生活、諸先輩、諸先生のお人柄とか逸話或いは欧米留学時代の想い出の類が多かった。
 諸先先では例えば村瀬春雄(高商本科明治二四年保険学の泰斗父のゼミナールの思師)、佐野善作(同二七年)田崎慎治及び三浦新七(何れも高商本科同三十二年、専攻部三十四年)坂西由蔵(盲目の学者高商本科同三十五年、専攻部同三十七年)等々の大先生方が続々登場した。私自身幼少の頃これらの方々の中の何人かに直接お目にかかれる光栄にも浴して居る。

 左右田銀行が昭和初期の大恐慌のとき取付け騒ぎに遭ったのを目のあたりに見たが、その頃小学校で『左右田銀行の左右田さんがンーダ呑んで死んだンーダ……』という俗謡が流行り、私達は何のことが判らぬまま家で唄って居たのを父が咎めて激怒した。左右田喜一郎博士は明治三十七年母校を卒業、永年母校の教授を勤められたしんしな学者兼実業家で父の尊敬する一人であったのである。私の少年の頃横浜の根岸海岸の近く或いは南太田の丘の上が私共の住居であって屡々父の散歩につれられて家の近辺を歩き廻ったものだが父の得意は『玲瓏高き仙嶺の千秋の雪影きよく……』の一橋会歌と詩吟『鞭声粛々夜河を渡る……』の二つであった。就中一橋会歌の調子の良さは子供心に余程応えるものがあった様だ。斯様な環境下で育って行った私は年と共に一橋に次第に親しみを覚え何かしら憧れを抱く様になった訳である。

 後年、父が教授を勤めて居た横浜高商に奇しくも学ぶこととなった。同校卒業の前の年『お前の云うように将来実業界入りを希望するのであれば、なにも格別大学へ行くこともあるまいが若したって大学行きを望むのであればそれも大いに結構。それならば一橋が良かろう』との父の言葉もあって遂に一橋人とは相成った。爾来幾星霜、社会の波にもまれ兵役、会社勤めと国の内外、幾多の職場で働き続けて今日に至って居るが、その間、甚だ数多くの勝れた同窓の先輩、同僚、後進の方々に接し得てこれらの方々から有形、無形多大のお力に預かり今日ここに在ることは誠に有難く幸せの至りに思う。

 第二 入学と卒業前後の慌しさ

 人は誰しも静かに己れの来し方を顧みるとき過ぎ去った或る時期、何等かの事情で何とも慌しく忙しく過さねばならぬ日々があった筈であるがその困難を首尾よく打開して進んで行くと往年の苦労は、いつとはなしに堪らなく懐しい想い出となって甦って来る様だ。これ正に人生の妙であり綾とも云えるのではなかろうか。

 私は商大入試の直前、即ち昭和十四年の一月から二月にかけて不覚にも風邪をこじらせな挙句急性腎臓脚気に見舞われ発熱、歩行困難に陥ってしまった。こんなざまで高商卒業は愚か肝心の大学受験も覚束ない。こんな事で一年間を棒に振って堪るものかと心に誓い、連日、注射攻めの応急治療を特に医師にお願いし食欲不振のところを無理にも胃の腑に話め込んだものだ。天、我を見捨てず幸い高熱は次第におさまり、どうやら杖を使えば歩ける様になって来た。やっとの思いで高商卒業試験の中の数科目をあとでの追試験の受験で良いとの手続をとり取り敢えず大学受験に臨むことにして頂いた。
 受験勉強の最後の追い込みを待った無しの治療と体力恢復への努力。私よりは寧ろ両親の心配の方が大変であった。末だに残る微熱と歩行の疲労、息切れなどを残して試験の当日を迎えたが幸い学科試験の方は自信充分とは云い乍ら今度は身体検査が最大の鬼門である。青い顔を両掌で擦って血色をつけ気管支のラッセル音を押える様に呼吸するなど苦心惨憺。試験終って医師の『ハイッ、次の人』と云う一声で『やれやれこれで助った』と思わず、そこへ坐り込みたい様な思いがした。

 試験の前日よりお世話になって居た親戚宅にお別れを告げ途中で休み休み横浜の自宅へ辿り着き再び静養、加療と追試験の準備。残りの数科目の追試験を数人の同僚と共にガランとした人気の無い教室で受験した日の佗しさは今でも忘れられない。

 扨、それでは卒業の際の忙しさは如何。これは殆んど諸兄の場合と大同小異と云うこととなろうが私にあっては、こうである。
 即ち平素の不勉強がたたって、何れも俄勉強の卒業試験と『糊と鋏』の卒業論文(井藤半弥先生、嘸御苦笑かと拝察)、就職試験は一発勝負で東京丸の内の或る貿易会社一つだけを目指す。
 徴兵検査は止宿先の荻窪の身体検査の結果、第一乙種合格、防空隊行きとの決定、更にゼミ仲間の海軍委託学生篠原主計大尉(当時)の宣伝に乗って海軍経理学校を受験(後に記すがこのため数年間ニューギニアの部隊で戦争を体験することとなったが無事復員が叶った)、卒業式終了後直ちに横浜の自宅へ引越す等々僅々一月足らずの短期間内に目まぐるしくその一つ一つを予定通り片付け全部済ませて大安緒。この忙しさのため胸の病気を患い病床生活を余儀なくされた方々も尠なくなかった様であるが私は却ってこのために健康に大いに自信をつけ得るに至った。
 唯、私は戦争の前途に大きな疑問を抱き又『これではまるで戦死するため長い間学校で学んで来たようなものだな』と些か物思いに耽ることもあったが毎日の慌しさにそんなつまらぬ感傷はすぐに吹き飛ばされてしまった。

 第三 国立生活の想い出

 斯様な次第で大学生活の初めと終りは滅法、忙しい思いを味ってしまったがその中間は至って呑気に構え勉強らしいことは殆ど何もせず、果してこれで良いのかなど自問自答してみたりしたものだが別段決論が出る訳でも無かった。然し乍ら段々日がたって行くうちにそれではと云うことで一つは鎌倉、北条、室町時代の日本歴史の勉強、も一つは明治の文豪、漱石、鴎外、樗牛、蘆花等の小説の再続や初歩の哲学の勉強を目指すこととした。
 何故かと云えば甚だ生意気な云い草であるが大学の学科目の大半が既に高商で学んで来たものの繰り返しであって何等新鮮味を感じなかったことと、更に文学、哲学は商業、高商出身の自分にとっては特に『人間』勉強のため肝要であると見てとったからだ。
 後年、私は禅書の勉強に熱を入れ今日に至って居るが、この時代の歴史や哲学、文学類の独学が今の宗教書の独習に大いに役立って居る。曾て西田哲学の例の有名な、『絶対矛盾的自己同一』は私にとって銀山鉄壁、全く跳ね飛ばされるの思いであったが、後年、世界の禅者鈴木大拙老の全集を紐解くに及んで大拙老の所謂『般若即否の論理』なるものを知り、彼此相通ずるものあるを覚え大いに愉快に思ったことがある。

 閉話休題。学生時代の思い出の中の五つを纏めて見よう。

 1. 交換息子

 横浜の自宅と大学との間は直距離にすると大したものではないのであるが、電車通学では二時間半乃至三時間もかかる。これでは可然き下宿探しをせねばと考えて居た処、幸い国鉄中央沿線の荻窪にお住居の遠縁のお方の紹介で同じく荻窪の伴様方にお世話になることにきまった。
 と云うのは伴家御長男の元雄氏が同じ年に横浜高工に入学されこれ亦これから下宿探しと云う訳であった。両家の生活振りも同じ又お互いに信頼し合えると云うこともあり、ここに両家の息子の交換が目出度く実現。爾来二人の息子が卒業する迄の二年九ヶ月両家の母親は文字通り『養子』を得ることとなりお互いに親身になって世話をした。今もって当時を懐しくも楽しく想うて居る。
 私の両親は既に他界したが伴家では住年の大黒柱、みの様は今年九十一歳の御高齢ながら頗る御達者である。先程、突然お訪ねして小生持参の日本酒で二人で意気投合、乾杯の杯を重ね思わず時の経つのを忘れた。又御子息の元雄氏も陸軍航空隊の将校であったが私同様無事復員、現在お元気で会社勤めをして居られる。
 生きて居ると楽しい思いをするものだ。

 2. 専門部無試験入学運動

 予科御出身者にとっては御関心が薄かったことと思うが高商出の御連中にとっては、いわば死活問題とも云える専門部出身者の学部無試験運動なるものがいつの頃から始まったかは知らないが我々の入試の前後の頃からこの運動が急に喧しくなって来た様で毎月の一橋新聞にも可成り派手に取り挙げられて居た。
 大学一年の秋の頃かと記憶するが或る夜、突然四、五名の横浜高商三年生の人々が荻窪の私の止宿先を訪れ本運動の見透しはどうか、兎に角、其の実現を絶対阻止して欲しい旨、真剣に訴えられる。血気盛で閑を弄んで居る私は事情誠に御尤も善は急げとばかり、不逞、不遜にも高瀬学長のお宅を訪問、直談判するに限るとばかり薄暗い西荻窪の街を、さんざん探し廻って夜の九時頃学長宅を訪ねたものだ。後輩連中は外に待たせて私一人で玄関に入る。突然のこととて学長夫人さぞ吃驚されたろうが生憎学長は三商大関係の仕事で大阪へ御出張の由御丁寧な御挨拶を得たのでそれではと再訪を期してそこを引き揚げることとした。今度は方向を変えて、学長面会の前に大学学生課に赴き談判に及びその結果如何で再び学長に迫ろうと云うことにして翌週の月曜日の朝、早速同課へ直行した。

 応待に出て来た方が学生主事の大刀川浩一郎氏(あとで判ったが同氏は大学大正十年の大先輩)である。大いに意気込んで居た私の陳情が終らぬ中、破鐘の如き大声一番『君の云うことは、良く判っとる。そんな馬鹿な筋の通らん話しがあるもんか。この儂が、そんなことを許すと思うかね。君、専門部は専門部としての立派な建学の趣旨と伝統と云うものがある。君、そんな事、心配するなんてどうかして居るよ』と一気呵成に奴鳴るが如き御回答。
 神妙に拝聴して居る私は何となく叱られて居る様な気がして来た。私は内心これは大した男だ、こんな豪傑が居るとは仲々頼しいものだと考へ最敬礼して其処を退散した。勿論、学長への談判は、もう必要なし。早速、高商後輩の代表者にその旨伝え、一件目出度く落着と判断した。

 因に如水会名簿を調べて見ると専門部は大正十二年第一回卒業生を世に送り出して以来昭和二六年その幕を閉じる迄、約三十年の間、幾多、有為の人材を実業界に輩出させて居る。大学当局に大刀川さんのその後の御様子を問合せて見たら、既に亡なられた由。大変残念に思う。

 3. 父の卒業論文

 ある日、ふと思いついて図書館に赴き、父の卒論を借覧して見た。題目は『ヨークアントワープ規定を論ず』と記憶して居るが、立派な和紙の表紙をつけた部厚い頁数の論文で縦線入りの和紙を用い全文、毛筆楷書で一字々を忽せにせず丁寧に謹書してあったことには驚かされた。又英・独語等原文引用の個所は極細字の毛筆の横書きで克明に認めて居る。
 論旨を読んで見ると不勉強の私にも少しは判ったが難しく判らぬ個所も結構ある。時間の都合で、ゆっくり熟読する訳には参らぬが兎に角、明治の学生は大したものだと思う。又この親爺のお蔭で学校生活を永年つづけ、又そのお蔭で我々一家が養われて居り、そして親爺の大後輩としてのこの俺が安閑としてここに居りその論文を見て居るなどと次々子供の頃から父との対話の歴史を思い浮べ、妙に親爺が懐しくなって来たものだ。
 普段は喧しい親爺で時々閉口頓首の態であった此の父の卒論を親しく手にとって読んで居る裡に段々と父への敬愛の念が湧き出て来た。
 後日、休日に帰省した折、父と二人での晩酌の際、ひょっこり想い出して、この一件を父母に報告すると『そうか、そうか、お前は少しは大人になって来たようだな。学校の方は、どうだな。うまく行っているかね。』など大いに顔を錠ろばせて満足の面持であった事を懐しく想い出す。

 4. 筧憲法と法律の独習

 東京帝大名誉教授、東京商大講師、文学博士筧克彦先生の大日本帝国憲法の講議には全く度肝を抜かれたものである。伊勢神宮遥拝と拍手、祝詞言上に始まる講義、然かも一年かかって憲法第一条からせいぜい第五条どまりと云う破格振り。黒板に毎回掲かげられるのは畳二枚分位いの大きさの解説図。真中には天照皇太神宮様、その周囲が万世一系の天皇様、更にその外側が大日本帝国臣民、一番、外部には『とつくにぐに』と色とりどりに示されて居るのだ。云はば伊勢神道と憲法との合成論みたいなもの。カイゼル鬚を振わせ高齢なお矍鑠たる名物教授の真面目極まる名講義も私にとっては馬の耳に念仏に過ぎず、一体これは、どうしたものか、科学の客観性など全く没却されこれでは学問でなく信仰に過ぎぬのではないか。それより一層のこと論理、思想を超越した本来の信仰に徹し、古来の神道或いは伝説の講義と銘うった方が余程、良かろうなどと甚だ不逞な気分が横溢して来て段々、授業は欠席勝ちとなった。

 そうこうする裡に、時間をもて余すのにも飽きて来てかくてはならじと思い立ち高商時代、比較的授業時間に乏しい法律でも独習して見ようと云う気分が高まり始め内容不可思議にして不可解の筧憲法に替えて他の大先生の著述(多分、上杉先生であったか)やら、これに関聯して美濃部達吉先生の行政法、田中誠二先生の商法など大冊ものを纏めて買い求め読み出したものだ。しばらく熱中して居る裡に我乍ら驚く程良く理解出来た様で嬉しくなって来た。
 殊に美濃部博士の行政法の著述は冷徹緻密、些かの隙無き名文でこれには惚々させられた。或る日、友人から高文と云う役人登用の試験が近くあると云うことを聞いたので試みに資料を取り寄せ、試験迄のあと二、三ヶ月のところを急に思い立って受験準備に充てることとした。堅苦しい役人志望の気持は全く無いので自分の好きな科目を重点に置き久し振りに深夜勉強を再開した。試験場は何処であったかすっかり忘れてしまったが、やけに広々とした古くてガタピシする木造家屋の講堂であったようだ。終って自信満々と云うところであったが結果は見ん事、失敗に終って些さか苦笑させられたものだ。

 後年、このときの閑つぶしの法学独習が大いに役立って参った。海軍官衙や実戦部隊での規則、命令、下達文など草案起草、さては永年の会社生活に於ける社規社則やら団体規約類の取り纏め等々、ものの考え方から表現、辞句に至る迄、頗る参考になって大助りした。これは想い出しても愉快な話しで、それ以前の学生時代とは大いに異なり自分の好き勝手な勉学を自由自在に楽しむことの叶えられた一橋時代が有難く又微笑ましく想起されるのである。

 5. 井藤ゼミ

 井藤半弥先生の御風貌、チョッキから右手で取り出される金側の懐中時計、少々甲高いお声、『財政の必要且充分の要件は強制、獲得、経済の三つであります』との財政学の名講義など今だに鮮やかに瞼に残り耳朶に響く。

 ゼミナール個有の講義は何であったろうか。富国論の原書であったか或いは社会政策の何かであった様にも思うがその内容は物の見事に卒業と共に学校へ置き忘れてしまった。(井藤先生、御免なさい。申し訳御座居ません。)
 吉祥寺の先生のお宅へも度々参上、奥様より手厚いおもてなしに預かり感謝して居る。大正の十年台に先生は独乙の伯林大学に御留学中で偶々其の頃、私の父も同大学で海上保険の勉学中であったので先生と、お近付きを頂いた由、父よりも往年の先生との御交友関係を聴いて楽しい想いをした。父は長命であったが先生は随分早く世を去られてしまわれた。誠に残念なことである。

 又、想い出されるのはゼミナール員の一人の海軍委託学生、主計大尉の篠原さんのことである。先生に質問されて、バネの如く直立不動に立ち上り「何々は何々であります。それ以外のことは、これからの勉強予定でありますので今日はこれで御無礼させて頂きます。終り!』と云う訳で先生の微笑、一同の笑い声で教室は大変なごやかに終始した。
 我々と篠原さんとは一廻り程、年の隔たりがあったが鹿児島御出身の明朗、卒直、豁達なお人柄と人のお世話好きな性質で同僚から大いにもてて御本人も学生生活を非常にエンジョイして居られた。卒業後も永らく御交誼を頂いたが先年、病により急逝してしまわれた。

 既に申し述べた通り、私は彼の薦めで海軍の短現制度のあるを知り大学卒業の後、海軍経理学校に学びその後、海軍艦政本部、第十八警備隊と正味四年半余の軍隊生活を東京、ニューギニア島に互って体験して来たが若し彼と巡り会うことが無かりせば、私は陸軍の一員として多分大陸か南方に於て己れの白骨を野に晒して居たかも知れない。愉快な友を惜しくも喪したものである。

 第四 四十年の歳月と感慨

 唐代の初期、百丈懐海なる禅の巨匠あり。或るとき一人の僧との対話に次の如きがある。『如何是奇特事。丈日、独坐大雄峰。僧礼拝。丈便打』と云うのである。
 仮に末熟者のこの私が其の場に居合せ百丈禅師より『汝如何』と問われたら慌てて『六十有三。箇幻身』などと口走り禅師の痛棒を喰って叩き出された事だろう。

 大学卒業の後のこの四十年の歳月の流れは私にとって誠に貴重な経験の連続であり苦楽を織り込んだ長編の絵巻物の感を深くする。海軍入隊、艦政本部に於ける物質動員計画策定と実施、ニューギニア島第一線の戦陣生活、上司、同僚、多くの部下の戦死、辛じて復員、元の職場へ復帰、マッカーサー司令部の指令に因る会社解散、それにつづく群小会社の簇生、その一つへの再就職、戦地仕込みの猛烈なマラリア再発の苦しみ、会社長欠、倒産寸前会社の経理マンの辛労、勤務先会社の合併につぐ合併、時流に乗る会社の膨脹と発展、数度の転勤、六年間のブラジル生活、三年間の名古屋暮し、停年、それから現在の会社生活。この間苦中に楽あり、楽中に苦あるの思いを深め、特に人間の真贋鑑別の眼を多少とも養い得、又、『いざ鎌倉』の危機に対する心構えなども些かながら実戦と実践裡に培って来たのではないかと思うのである。とに角、僅か数年間の短期間の中に、戦争、敗戦、会社の突然の消滅等々古今末曾有の大異変に因る混乱の御蔭によって他の世代の人々には得られぬ貴重な人生経験を積み重ねたことは誠に幸せであったと云わざるを得ない。

 我が家は昔から御神仏崇拝、御先祖尊敬の雰囲気著しく幼少の頃より仏前での正坐、読経の慣はしあり今後も身心の許す限り続けることになるが朝夕ほんの僅か許りの礼拝と瞑想が一日の精力の源泉であり一日の疲れの解消にもつながる。諸々の仏教書、就中禅関係の書物の魅力は私にとって絶大である。

 因に手許にあるいろいろの会員名簿を当って同期の仲間の生存率を調べて見る。名簿に新旧の相違あり、必ずしも正確な数字とは云えないが、所在不詳者を死亡者に込めて割り出して見ると生存率は海軍経理学校同期七〇・一%、大学十二月クラブ七一.九%、横浜高商同期五十五・七%、横浜商業同期五十八・七%と云った具合であり、又毎年この率が低下して行くのが残念だが自然の勢いと云えよう。
 又如水会報クラス会通信を御覧あれ。つい先頃迄は明治二十年代、三十年代の方々の御活躍など記事を賑合わせてきたものだが今や明治の記事は殆ど其の姿を消してしまいこの頃の記事は大正初期、中期のものから始まって居る。正に諸行は無常にして万物は流転をつづけて居る。私は『享け難き人身』を載き又『聴き難き仏法』を多くの書物を介して親しく拝読し得る幸福をつくづくと感謝し、多少なりとも何等か世の中にお役に立った上で静かに別世界に旅立ちたいものと秘かに念願して居る次第である。残された貴重極まる残りの何時間、何日、何月、或いは何年、諸兄ともどもこれを充実せしめ『日々是好日』底の境涯を求めこれを深めて行き度いものである。

 第五 禅言のおすすめ

 我が家の仏教は当初、曹洞宗(越前の永平寺派)であったが去る昭和三十八年四月、三重県から鎌倉の円覚寺内の搭頭、白雲庵へ墓地を移転したのに伴い宗派は臨済宗円覚寺派となった。いろいろの禅書、法語の類いを読んで行くと中国の唐、宋、元の各時代、我が邦で云えば鎌倉、北条、足利時代以降幾多の傑出した中国僧、日本僧が輩出し彼我交流の禅の歴史は特に興味を惹き又当時の貴重な資料が多く現存しそれ等が今日の日本の宗教、習慣、文化の上に多大の影響を与えて居ることを学んで居る。

 わけても私の心をつよく打つものは多くの禅僧の痛烈極まる生きざま、死にざまであり、死を堵しての多年の刻苦精進、表面には少しも現わさぬ師匠の弟子に対する深い人間愛(弟子を徹底的に突き放し叩きのめして弟子をして冷暖自知的に悟りに入らしめる。現代の所謂教育ママなるものと比較しては如何。)更に小欲知足(遺教経)、名聞利養と時の権力など全く眼中に置かず、自利利他、生死を超越、悠々と生き、泰然と逝く頗る痛快な彼等禅傑の生涯に対し大きな関心と深い共鳴を覚えさせられるのである。

 因に昭和二年学部卒の辻雙明氏は戦後、今迄の会社勤めをやめて出家得度され永年に互る朝鍛暮錬を経て見性(悟る)せられ代々木の禅堂の師家として後進の指導に当って居られる由。同氏の著書に『禅の道を辿り来て』、『禅骨の人々』(何れも春秋社版)などあり、一読、甚だ感銘深きを覚えた次第である。

 扨、禅のモットーは御承知の通り『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』と云われるが、同じ仏教の中でも不立文字の禅宗には他の何宗にも勝さる大量の語録、法語類が蔵されて居るようだ。これは所謂言詮不及、言語同断の仏心、仏語の本当の心を何とかして人々に教示せんとする歴代の祖師の涙ぐましい努力の跡と申せよう。

 それはさて措き、ほんの馳け出し如き私が禅の解説書を云々するのは誠におこがましいこと乍ら、これから少し読んで見ようかと思われる方々も絶無とは考えられぬと思うので私自身が曾て親しみ又今日、今後、読み続けんとする著述の中の全集ものの一部を取り挙げて見る。勿論、単行本にも甚だ有益貴重な著述が多く世に出されて居ること申す迄も無いがここでは割愛。

 (1) 鈴木大拙全集 (岩波書店、全三十二巻)
 昭和四十三年頃より毎月発刊。最近、再版出版中。大拙老九十五年の生涯に互る和文の論説、評論、随筆等の宝庫であり判らぬところがあってもそこを飛ばせて続けて読んで行く裡に興味が段々と深まって行く。

 (2) 鈴木大拙禅選集 (春秋社、全十二巻)
 昭和三五年に出版された同社の大拙選集、続選集、追巻全廿六巻中の一部の再版であり目下刊行中。(1)が平均五百頁位の大冊なるに比しこれは百五十頁から二百頁足らずのもので朝夕車中で存分に楽しめる。

 (3) 秋月龍現著作集 (三一書房、全十五巻)
 秋月氏は哲学、仏教の学者。中年になって出家、現在埼玉医大の教授と禅グループの指導者であり大拙老晩年の弟子。大拙老の禅を更に展開せしめんものと研鑚して居られる。この著作集は大拙全集の解説書としての色彩が諸所に見られるようだ。この中の第十四巻『禅宗語録漢文入門』は異色のもので有益。『無門関』をテキストとして居る。

 (4) 禅の語録 (全廿巻の中既刊十六巻、筑摩書房)
 昭和四十年代に当代一流の仏教学者、禅僧等を動員して次々出版されて来たもので達摩語録、六祖壇経、臨済録、趙州録無門関、禅関策進等々中国歴代の禅傑の語録に対する原文、解説、和訳であり香り高き名著シリーズである。筑摩書房再建後の昨今、久し振りに『雪ちゃうじゅ古』(第十五巻。入谷、梶谷、柳田三氏著)が出された事は喜ばしい。

 (5) 日本の禅語録 (講談社全廿巻、あとの一巻なる第十六巻盤珪を残すのみ)
 (4)が中国禅僧の語録であるのに対しこちらは栄西、道元から良寛に至る廿五名に及ぶ日本の傑出僧の生涯、思想、語録等の原文と其の解説であり一般向きでもある。(4と同様、当代の代表的禅学者、禅僧の手になるものだ。

 (6) 古田紹欽著作集 (講談社、全十五巻の中、既刊五巻)
 古田氏は妙心寺派の僧籍を持つ現代禅学者の最高峰の一人。大拙老の創められた鎌倉東慶寺内の松が岡文庫の責任者。曾て大拙老に親しく指導をうけられた一人であり難解の禅思想を氏一流の達意流麗な文章により読者の手の届く様に解説して居られる。又氏は茶、能、禅画、墨蹟(禅家の書)等禅の日本文化に対するもろもろの影響への造詣深く、読者をして肩のこらぬ裡に禅とは何かを語って居られる。

 最後に有益にして甚だ便利な禅関係、仏教全般に互る辞書を二つ申し添える。

 (1) 禅学大辞典 (大修館書店、駒大内禅学大辞典編纂所編、上、下、別巻の三冊一揃)
 これは曹洞宗が三十年近くの苦心の末、漸く世に問うこととされた日本唯一の詳細な辞典で内容豊かな書。大抵のものはすべて網羅されて居り至便である。

 (2) 仏教語大辞典 (中村元博士著。東京書籍出版、上、下、別巻の三冊一揃)
 この辞書が一揃あれば殆ど凡ゆる仏教用語が一目瞭然、我々門外漢にも甚だ判り易い解説であり又梵語、パーリ語、チベット語も付されて居る。中村氏単独の著述で同氏の学識豊富なことには驚かされる。但し、これは固有名詞を欠く。

 末尾に仏教書探しの早道を申し上げると新刊書として東京大学赤門前の山喜房仏書林と湯島の中山書房の二つが最も便利。又中山書房が幹事となって居る仏教書出版販売連盟(専門店十八社加盟)の仏教書出版総合目録を取り寄せられるのが可。又古書としては神田神保町の東陽堂書店と小林書店が良い。殊に東陽堂が毎年一月と盛夏の二回に互って出して居る東陽堂古書在庫目録は甚だ便利であって、永年探し求めて居る古書をこの目録が手掛りとなって入手し得たことも一再ならず専門家は勿論、私の如き素人にとってもこの目録が貴重な資料となって居る。

 擱筆に当り、物故せられた数多くの同窓諸先輩、諸先生、諸兄の御冥福を心より御祈り申し上げると共に同期諸兄の御自愛、御多幸を切に御祈り申し上げ併せて平素の御無沙汰をお詫び申し上げます。

 




卒業25周年記念アルバムより