7組 上原 聰 |
何時の間にか古希を迎え、過去を振り返える齢となってしまった。終戦後から六十歳の定年退職までの壮年期の総ての精根を傾けて働いた全国銀行協会連合会での最後の仕事は部長考査役であり、この役職は全銀協の監査役の仕事と全銀協会長の事故のある時の代理出席の仕事であった。当時の主な仕事としては万国博理事会への出席と、各種委員会への代理出席であった。万国博理事会では住友銀行の堀田頭取の代理者として出席していた片山光男君とよく顔を合せた。 あの敗戦とそれまで奉職していた東亜同文書院大学の閉鎖を転機に新たに設置された銀行協会の調査部に入社した。それから十年間は調査部の仕事に専念した。当時の全銀協調査部の仕事は機関紙「金融」の発行と、都市銀行の調査部長会の主催と、金融制度調査会での全銀協専門委員の仕事が主であった。当時の都市銀行調査部長には興銀の梶浦英夫氏、第一銀行の井上馨氏、三菱の町田一郎氏、勧銀の武田満作氏、富士の青葉翰於氏、住友の伊部恭之助氏、三井の飯田喜雄氏等の論客が多く、楽しい会合であり、多くを勉強したこと、多数の知己を得たことが収獲であった。調査部長も四年間で交換部長に代わり、以来十年間この職に専念した。 交換部の仕事は手形交換、内国為替集中決済、信用調査等の現業部門を一手に引受け、協会としては他に見られない存在であった。交換参加銀行は直接交換に都市銀行、地方銀行等の社員銀行、農中、商中、外国銀行等の準社員銀行のぽかに東京経済圏にある相互銀行、信用金庫、信用組合等の代理交換参加金融機関を加え、世界でも類を見たい多数の金融機関を擁していた。それだけに手形事故も多く仕事も忙しくまた責任も大きかった。 例えば不渡手形事故に関する加盟銀行関係の訴訟事件に関する裁判所の依頼にょる鑑定証人及び単なる証人としての出廷等のほか、全国各地銀行協会の毎年二回の会合における手形交換に関する質疑応答等が重要な仕事であった。代理交換の信用金庫、信用紐合では手形交換に参加する理事長会、組合長会でもそれぞれ十日会と信交会という会合を持ち、交換部長が顧問としてその指導に当った。 こうした銀行協会時代も定年で退職し、日本大学教授として第二の人生を迎えた。日本大学では商学部で十年間金融論を担当したが、七十歳の定年を間近にして学生論文を提出し商学博士の学位を得たことと、多くのゼミナール指導の学生を自分の手でそれぞれ各種の職場に送り出して、今でもゼミの0・B会で顔を合せることが無上の喜びである。日大定年後も嘱託教授として週に二日、ゼミの指導と大学院の講義とで四単位の授業を担当し、閑職の中ででも生き甲斐のある有意義な毎日の生活を送りたいと思っている。 更に学生時代に遡上れば十二月の繰上げ卒業で昭和十七年一月に上海の東亜同文書院大学に赴任した。当時の上海は国際都市としてなお栄えており、戦火被害も特に租界内では軽微であったが、太平洋戦争への発展によりその影響が徐々に押し寄せることとなった。上海での三年間の生活は学徒動員までは平穏な学究生活が続けられ、勉強の後のフランス租界内の散索は楽しいものの一つであった。休みの時は蘇州、南京等の旅行、夏期の休暇には青島、天津、北京、大連等へ旅行したものもなつかしい想い出であった。然し戦争の激化とインフレの急速な進行は、日本の外務省の予算に縛られる我々の生活を窮迫に追いつめ、その上捨悪しく肺門周囲炎という病を得て内地療養が必要と診断され、又帰って来るつもりで住居はそのままにして我が身一つの軽装で帰国した。 帰国の船は今思えば最後の船で、敵潜水艦の襲撃におびえながら、青島、天津の陸地近くを通り、大連に二泊して朝鮮沿岸を通ってやっと門司に到着したのは十九年五月のことであった。 故郷に引きこもって療養に努めた結果、病は克服出来たが帰る船はなく、十九年の末上京し激しい空襲と食料窮乏の中を耐え抜いているうちに敗戦、大学閉鎖という事態に至ったわけである。 上海に残った同僚上田貞次郎先生の令息信三君の戦病死、一橋の先輩北野大吉博士、同じく小楢高商から赴任された手塚寿郎教授の病死等多数の同窓の方々が不帰の客となってしまったのに対し、自分は病を得て帰国したが今なお生き長らえていることは運命の致す処としてかいいようがなく、誠に感慨無量のものがある。これらの方々に深く哀悼の意を表してこの項を終ることとする。 |
卒業25周年記念アルバムより |