序 詩
何億年前か、何千万年前か、それは定かでないが、まだ地球の表皮が、薄皮饅頭の薄皮のように、薄くて柔らかであった時、現在太平洋と呼ばれる大水塊の西北部に、三重の皺がよった。第一の皺が大興安嶺、第二の皺が長白山脈と山東省、第三の皺が日本列島であり、これまた何億年前か、何千万年前か、それは定かでないが、この皺と皺の間に、地球の両極の大氷塊が、大きくなったり、小さくなったりするたびに、水がこの皺の間に入ったり、引いたりして皺の間に、泥と砂とを沖積した。そしてこれは、前よりは後のことに間違いはないが、これまた何千万年前か、何百万年前か、この辺の地殻が隆起して、第一の皺と第二の皺の間の水が、僅かな水を残して引いた時、地表にあらわれたところが、満州大平原で、僅かに水の残ったところを、今われわれは渤海と呼んでいる。そして水が入ったり、引いたりして、海になったり、沼になり、湿地になったり、岸になったりしたところに、三葉虫がはえずりまわったり、羊歯が群生したりした。それが化石になったり、石炭になったり、石油になったりした。そこにそれこそ僅かに一〇万年を出ない前から、猿によく似た二足獣が、虎や鹿を殺してやっと生き残り初め、三〇〇〇年頃から、集団的に朝鮮の方から中国本土へ行ったり、中国本土の方から朝鮮の方へ行ったりした。四〇〇年前に、気の利いた若者が現われて、この辺の人間達を統卒した。彼の姓を愛親覚羅と言う。そして更に僅かに七五年前に、欧州から鉄道で来た白人と、日本列島から舟で来た黄色人が、ここで中規模の喧嘩をして、黄色人が勝ち、そこにおこがましくも、民族協和、王道楽土の理想郷を建設せんとした。その理想郷はこの地域の百劫の歴史から言えば、それこそ恒沙分の一瞬間に過ぎないのである。その一瞬間帝国の、短命の生涯を終らんとしている、その断末魔に、若い青春を賭けて、のこのこと出掛けて行った若者は、何と人の好い方向オンチであったことか!
一
昭和十四年七月、私は経済地理学の佐藤弘教授の博士論文の作成の手伝いで、満州へ行った。教授の博士論文のテーマは「柳条辺の研究」で、柳条辺とは、土を盛って土手を作り、その上に柳を植えてある棚であって、これが延々と、まるで原始的の万里の長城の如く、公主嶺を中心として連っているのである。勿論、農業が盛んになった二十世紀でそれは耕やされて、きれぎれになってしまったが、それでも、公主嶺や遼陽には残っているのである。私の御手伝いはこの土手の高さ、幅、のりの角度などを測ることで、極めて簡単であり、
「これで先生、理学博士が本当に貰えるのですか?」と半信半疑できくと、
「前人末踏の研究だから当り前だ!イッヒッヒ」と先生はうれしそうに笑った。
事実その翌年、この前人末踏の研究は東大理学部教授会を通過して、御承知の通り、佐藤弘教授は理学博士になられたのである。医学博士など、犬の糞ほどいっばいいて、それほど名誉ある学位ではないが、理学博士は、日本に何十人と居るまい。いやたいへんな価値ある学位である。この柳条辺について、詳説するひまはないが、これは即ち、国境線であったのだ。それは秦が、粛慎に対して作ったものか、高勾麗が唐に対して作ったものか、日本史に出てくる渤海国が作ったものか、又は女真に対して宋が作ったものか、私の頭には当時判然としなかったが、とに角国の中に国境線があることは、この満州の地にいろいろの民族の興亡があり、争奪があったことを私の頭に灼きつかせた。即ちこの土地は、日本本土の如く、神代の昔から日本民族のものであったのでなく、言はば時を得て、強大になった民族の占有したものであって、それが満州の歴史であると私に教えたのである。
約二週間、公主嶺、遼陽附近で、いくつかの柳条辺を測量したのち、私はおひまが出て、それから満州各地を旅行して歩いた。まづ第一に満州は広かった。満鉄が誇る「アジア号」に乗って、丁度新京からハルピンに向うときであったが、夕陽が地平線に沈む時、反対側に列車の影が遠く反対側の地平線まで延び、車輪の影が百米も延びているのには驚いた。ハルピンから更にチチハルに向ったが、全然山らしき隆起はなかった。ただ一面の草原である。この草原であることは灌漑に問題であるが、関東平野の尽きるところ、足利に生れた私には、南だけが平野で東をみても、北を見ても、西を見ても、すぐ山が見える環境だったから、これは驚きであった。
次に案外未開であった。承徳に行き、熱河ホテルに泊った時、私は蠍(さそり)にやられた。昼間、松柏の間に荒城の趣きのあった離宮でラマ教の歓喜仏を見た私は、「これはいかんなあ!」と思ったが、蠍にやられてますます「これはいかんなあ」.と思った。蠍を駆除することが出来なくて何が近代国家だ。日本の盟邦もくそもあったもんじゃないと煎餅布団ににくるまって坤吟しながら、眩いたものである。
幸いに私を刺した蠍は七節未満であったから、二日ばかりで血清がきいてなおったが、七節以上では毒性が強く死ぬこともあるそうだ。しかし未開であれば開化の楽しみがあると言うもんだが更に案外近代的でもあった。大連埠頭、撫順の露天掘り、及びオイルシェル乾溜装置、鞍山製鉄、先述した「アジア号」。このアジア号を今のSLファンが見たら随喜の涙を流すだろう。国鉄のデゴーなどは問題にならない。背高く、幅広く、流線型で堂々としていた。
大連郊外の星ヶ浦は、風光明眉で雨少く、素晴らしい別荘地であって、ゴルフ場もある。承徳の蠍の出るホテルとは雲泥の差である。又鴨緑江河口の安東では木造船が続々と建造され、製紙工場、パルプエ場、製粉工場があって、活気に満ちていた。大興安嶺や、熱河の山々は草山か或は岩山であって、樹木はほんとうに珍らしかったが、長白山脈及びこれと平行する張広万嶺、吉林哈亮嶺山脈は、松、杉、樅を産し、これらが安東で集散する。
安東には驚いたことには、株式取引所があり、盛んに売買されている。これは如何に安東に金が落ちるかを物語っていた。
最後に井口先生につれられて旅順に行き、そこで井口さんの親戚の旅順司令官の公邸に一泊した。司令官の所在を示す小将旗が翻っているポールの下から、眺めた旅順港は、私は一生忘れない。外交官に等しい要塞司令官のこの公邸からは、旅順港の要塞設備、補修、補給の諸ファシリティは一切見えない。それはむしろなだらかな岸に囲まれた小さな湾で駆逐艦のような小艦が一隻停泊していただけであった。しかしむしろこの何気ない湾を、司令官旗のポールの下で、双眼鏡で眺めていた私は、何だか東条鉦太郎描くところの、三笠艦上の東郷提督にでもなったつもりで、万が一にの場合は、俺もこの湾を守らねばならぬと心に誓ったのである。
二
昭和十五年、アメリカをのんびりと旅行して、帰って来たら、就職試験の期におくれてしまった。太刀川学生課長に相談したら、留年だという。留年したついでに高文を受験したら美事落第。但し満州高文行政科は合格。これを生かして、満州国へ行った。実は私は陸軍は好きでなく、海軍主計が良いと思ったが、前述の旅順司令官に、海軍主計はよせと忠告されたのである。海軍にはほんものの主計士官がおり、一橋出の予備主計中尉は、絶対に、戦艦、航空母艦、巡洋艦は乗れない。せいぜい駆逐艦か掃海艦、運送船だ、これは一ころだから止めた方が良い。艦と言うものは、まことに残酷なもので、駆逐艦が十隻かたまっても夜戦ならとも角、まともでは戦艦には絶対勝てない。アウトレンヂされて終りである。この忠告を正しく承った私は、絶対沈まない大陸の満州国を選んだのである。
満州国に行ったら「大同学院」と言う学校に入れられてしまった。私は実にこの学校には感謝している。私が現在人前でしゃべったり、歌をうたったり出来るのは、主としてこの学校のおかげである。部下の掌握術として、詩吟、朗詠、民謡を教えたのである。例えば、送別には「渭城朝雨」「明日はお立ちか」、部下を励ます時は「かくすれば、かくなるものと」、「昭和維新の歌」、何にもなくて困れば、「あさみどり、すみ渡りたる……明治天皇御製」等である。
又馬術も習った。満州馬の小さな馬だが、学院の全学生二百五十名が全員乗馬して、新京市内を行進する時は、市民が敬愛の念を持って仰いだものだ。いくら小さいと言っても鞍までは一米五〇はあろう。その上に跨り、左手に手綱を持つと何となく偉くなった気がする。
背なんか丸くしてはいられない。自然と背筋を伸ばすようにする。行政官、司法官、医官、教官、技官、これが五族協和でごちゃまぜに班を編成し、一ヶ月で班を変える。全員寮生活だから自然と仲よくなり、その友情は今でも変らず、私に今でも朝鮮にも台湾にも知人が多いのは、終戦でこれらが散ったからである。
卒業すれば、私は経済部に行くようになっていた。然るに始めての任地が、安東県に定った。私を親しく指導して呉れた、N教官が「漆原、お前達の期は行政官が五十名で、日系が二十名しかいないんだ。後で出世が侯つている。閣下はまちがいないよ。安東には同期がいるから俺からよく言っておく。お前は俺と同じでやがては経済部だ。病気をしないように、のんびりと行って来い」
安東は満州の関門、金の落ちる大事な都市で、私にも旧知のところである。私にとって初めて越年する場所に、安東のように、日本に一番近い、暖いというところを選んでくれた、人事処に感謝すべきであろう。附近には五竜背温泉もある。
「この戦争は長いんだ。ゆっくりいこう!」と満州国総務庁高等官試補、漆原栄一はかくスタートしたのである。
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