7組  枝広 幹造

 

 人生の目的は何か。人は何のために生きているのか。我々の生の意義はどこにあるのか。
 永遠の課題というと少し大げさだが、この何時になっても新しくて、しかも古い問題を想い乍ら生きてきて既に六十有余年。末だに確たる回答をなし得ないで、そのまま生を享け続けている。

 価値判断の基準は何かということを問いつめて行くと、どうしてもあの三太郎の世界に行かざるを得ないのは何故だろうか。それが真理を含んでいるからだろうか。それとも、小生の甘い幼なさのためなのか。真理とは何か。そもそも幼稚だとする基準は何か。何がその判断を支えているのか。青春のときの判断を支えたものと、社会的経験を経た後の判断の基準に差があるのだろうか。差がなければならないとすることは果して正しいのか。末熟でない判断とは何なのだろう。

 金銭、各誉、地位等の現在の社会的機構の中での価値判断の基準に、我々は常にマスコミを通じて影響され続けている。マスコミで大きくとりあげられることに善悪双方の価値を認めるよう、毎日慣れさせられている。
 毎年、春と秋になるときまって晴の叙勲式の写真がでかでかと新聞に出る。新聞記事に大きくとりあげることは、ニュースとしての重要性の他に、我々に現在の社会制度の下における価値判断の基準は何かを教えているようだ。少なくとも現在の社会制度の中で生きざるを得ない我々は、ここに最も一般的な人生の価値判断を見出し得る。勿論、この世の中には、これら以外の価値判断の下で生きている人が沢山いよう。それは余り我々の目には止まらない。

 もっと直言しよう。勲一等又は大勲位を貰うことを目的とした人生の意味はどこにあるのだろうか。営々としてこの目的のために生きてきた人生に意義があるのだろうか。現在の制度が人間に等級をつけているから、その最高のものを狙うのは人間としての生き甲斐になるというのだろうか。いつも叙勲の記事をみると、芥川龍之介の侏儒の言葉を思い出す。何故軍人と子供は胸に勲章をつけて喜ぶのだろうかと。

 贅をつくした金殿玉楼に住み、多くの召使いにかしづかれる生活こそ、人間の最も望む所であるなどという人は十二月クラブの人々の中にはいまい。我々の最も望む所は、最高の金銭的報酬を得、思うままの生活を送ることであると考える人もいまい。
 やはりいざ、何が最も望む所であり、最も価値あるものだと開きなおられると、人間の心の底に横たわっているものを答えざるを得ないのではないか。
 我々の心底にある窮極のものとは何か。何が最高とか、最も望ましいとかを判断させる基準となるのだろうか。

 名誉でもなく、金でもないとすると何か。三太郎の世界だろうか。常に迷い続け、常に探し続けて行く心だろうか。もし神の如き生活が最も望むべきものであるとすると、これを求めることと、日常の生活をこの社会制度の中で送ることとの間に矛盾の生ずる場合が多いのではないか。

 つきつめて行けば、最も望ましい生活は、神仏に奉仕する人々・・僧侶や牧師たち・・の生活ということになるのだろうか。
 心の底では常にそんなことを考え乍ら、毎日その通りにはならず、まるで逆のことを行っておるのが我々の生活だと思う。それはこの現実の社会に生きて行く以上仕方がないのだと割り切るのか。そう考えることと我々が最も望ましいとすることとの間には、天地の隔りがある。それでは一体どうすればよいのか。

 ゴルフの本をよみ、ゴルフのやり方を頭で理解し、最も望ましい打ち方はこうだと分かっており、それを実践しようとしても、ゴルフが身体という精神のいう通りにならないものの運動である以上、思うようには行かない。そこでゴルフの上達のためには、無意識のうちに身体が考えたように動く練習が必要だとされる。身体の根底にあるものの訓練なのだ。
 それと同じように、毎日の我々の生活の底にあるものを、常に最も望ましい方向にもって行くように訓練することが、人生というゴルフに似た過程で、最も望ましい価値あるものに到達し得る方法なのだろうか。

 




卒業25周年記念アルバムより