7組  岡部 寿郎

 

 遠い源を発って厳間を縫い、滝の淵に沈み、激々悠々、永い水の旅路も四〇年となり、遙かに海の水平線も霞んで見えてくる日も暮つ方となった。
 志半ばに逝った学友の誰彼を偲びつつ生き残った我々の現在の在り様は如何であれ、齢を重ねることは目出たいとされることから、この記念の年を迎え得た吾々は恵まれた運を持ったと云うべきであろうか。然し平均余年十年足らずとなり有り余る先行の日々を測ることの出来ない私にはこの四〇年をどの様に受けとめてよいのであろうか。卒業後の興亡、盛衰、栄枯の修羅の幾度かを潜らざるを得なかった私達にはそれぞれ感慨の尽きざるものがあろう。
 私とてもその中で精一杯やって来たが果して武運に恵まれ悔の無い生き様をして来たか否か、判り兼ねる次第だ。

 日々余年の縮りつつある今日、過ぎにし四〇年は私にとっては取返しの出来ない貴重なものを失って了った様に思われる。然し乍らもう一度四〇年の昔に還り再スタートに立つか、と問われても、私はこのコースを再び走ることを拒むであろう。

 私にはこれからの日々も為すべき僅かなものを持って過ごして行きたく、之を励みと考えているが、茫々と過ぎ去り「哀歓」の一句に尽きるこの四〇年は再びあってはならぬ様に思われるのである。

 目覚めて見れば炉辺の一貧書生に還った廬生ではないが、一橋で過ごした六年の書生の日に今度還ることが出来ればと思うのが唯一の思いであり、心より離れぬ六年の月日があったればこそ、四〇年後の今日、私は何の悔もない安らかな気持になれるのである。
 緊張とアンニュイ。自己の他にどの様な世界があったろうか。この我儘な己れを無条件で容れてくれた六年の師友との交りの世界。諸兄と共に共有したこの日々を今、限り無い愛情と感謝の気持をもって追憶する。
 六年間の昔の日日は、四〇年のこの年に正に私に与えられたレクエムでもある。

 続いて五〇年、六〇年の記念される年が来るであろう。しかし年と共に別れ去らねばならない我々は四〇年前の日々を想い起し暖く軟い日の続かんことを祈るのである。

 最後に、この機会に書き留めておきたいことを記させてもらう。

 私は北海道の一中学校より一橋専門部の門をくぐった。中学の最終学年私は家庭のことより、家を離れ孤独の世界へ出された、そして卒後二ヶ年間、代用教員等社会の空気を吸はざるを得なかった。そして漸く向学の志を充すべく一橋の一員となった。私の唯一つの願いは果されたが入学後の保証は何人もしてくれなかったのである。
 何故一橋へのことは省くが片田舎の中学よりは末だ一人の先人も一橋への進学者は居なかった故の挑戦心、雲の彼方の存在の如き一橋。又私を励ましてくれた兄の如き人は大塚金之助教授の存在を挙げ一橋への進学を激励してくれた(入学した時には教授は既に一橋の人ではなかったが)。

 一橋は私にとっては単なる上級学校ではなく、家を失った私には人生への入口において私を容れてくれた大きな救いの手であった。私の一橋の六年間は単なる学び舎でもなければ、人生社会へのステップ台でもない。一橋は私の光明であり生命の燃焼の日々そのものでもあった。卒後四〇年の今日始めてこのことを記しておき改めて己れの在り方にピリオドを打っておきたい。

 四〇年間のアルバムは一齣一齣のフィルムより描き出されるであろう。そのフィルムよりは陰陽如何なる像、形が映され様とも又その中の一枚一枚を如何ように拡大し説明し得ようともそれは各人の自由に任せよう。
 再ぴここに私は諸兄と共有した六年間の一橋での生活に限りなき愛着と感謝の念を注ぎ、ささやかなこれからの人生に魂の限りを尽し生甲斐としたい。

 


卒業25周年記念アルバムより