7組  金子 太助

 

 一橋の学窓を出てからまたたく間に四〇年の歳月が過ぎ去りました。「光陰矢の如し」という昔からの言葉が肌で感じられます
 。幸いこの時期に記念文集が発刊されることになり、すぎ去った過去を思い浮べながらまとめてみるのも意義あることと思い、性来筆不精ではありますがあえて拙文を書くことにしました。しかし時間と紙面の制約もあり、余り昔にさかのぽるわけにもゆかず大雑把に分けて次の五つの時期にまとめてみることにしました。



 一、学生時代 (一橋専門部および学部)

 私の場合はやゝ特殊で東京の私立商業学校(野球で有名な早稲田実業学校)を昭和九年卒業、当時の状況は卒業生の大半は社会に出てサラリーマンになるか家業を手伝うかで上級学校に進学するものは数えるほどしか居りませんでした。私もその例にもれず実社会に出て働きましたが一年位経つと学歴社会の厚い壁を痛感し、さればといって小さいながらも事業をやるだけの資金・才量・勇気もなく結局私より二年前に卒業、商大専門部に進んだ先輩の話を聞いて刺戟をうけ、ひとつ自分も頑張ってみようということで一年余り当時では有名な神田の日進英語学校という予備校(現在ではその名を聞かずない様です)に通いあとは図書館で専心勉強した。
 最近のように教育パパ・ママに発破をかけられたわけでなく全く自発的意欲でとり組み一生懸命やったわけでその姿が今でもつい最近のように目に浮びます。真剣味の点では生涯最高であったのではないかと思います。特に専門部は他の高商と異なり簿記はなく旧制中学校卒業生と同じように数学で受験しなければならないハンデイがありこれには少なからず参りました。
 受験の結果昭和十一年幸い合格できた時の感激は正直云って過去最も大きかったのでないかと思います。それだけに入学後はこれからが愈々本番だと思い、また当時の先生は日本でも一流の杉本・上原・井藤・鬼頭・村瀬・阿久津の諸先生をはじめ有名教授ばかりで勉強しなければ生涯の損だという健気な気持で講義を聞きました。
 ゼミは金田先生の「シュマーレンバッハ」のテキスト(訳本)を使ったが当時は自分にはそれを理解するだけの基礎がなくよく分らなかったことを記憶しています。運動の方は最初はボートのクラスチャソそれからは短時間で汗をかく能率的な柔道・空手など少しかぢった程度でした。

 三年になってこのまま社会に出て働くのもよいが、またとないこの機会を失うのはもったいないような気持になって更に学部を受験、三年をよく冨士の見える美しい国立で過ごしました。一橋は国立大学でありながらその雰囲気は誠に自由で、しかも教授・学生がゼミナールによって結びつき、のびのびとした中で自主的に勉強できたことは今でも幸せだったと思っています。ただ気持通りその成果があがったかどうかは残念乍ら疑問でこれは別問題としておきたいと思います。四〇年経った今でもよき青春時代を過ごすことができたと感謝の念で一杯です。恐らく他の級友諸兄も同じ気持だろうと思います。



 二、軍隊時代

 忘れもしない昭和十六年十二月八日、私が国立の大学前通りの本屋の隣の食堂(名前は失念)で昼食をしていた時、ラヂオで日米開戦の報を聞きこれは容易ならぬ事態になったと大きなショックを受けたことを今でもはっきり覚えています。

 それからは世をあげて軍国主義時代に突入、あわただしい中で繰上卒業、就職(三菱重工業長崎造船所原価係)、入営、あとはすべて命令に従って動くまゝ、個人の存在など遠い彼方に押しやられ一種異様な独特の閉鎖社会の中で終戦まで過ごし、偶々その時満州に居たためソ連軍による武装解除、続いて新京に集結させられ、約三五日間列車に乗せられて、ウクライナ近くの収容所に連れて行かれ二年半足らずの苦しい抑留生活が始まり、「働かざる者食うべからず」との鉄則に従い森林伐採・農場の収穫、夜間の鉄管埋設・煙草工場の原料運搬・橋梁桁の埋設、鋳物工場の製品整理等種々の重労働を課せられました。どうもつらいいやな仕事はわれわれにやらせていた様な感じです。
 帰国后の会社生活できついときもありましたがこのときの苦しい体験に比べれば大したことはないんだと自らに云い聞かせてかなり役に立ったような気もします。抑留生活がもう少しのびれば恐らく私の身体はもたなかったであろう。鋳物工場の作業は、冬でも上半身裸で塩水を飲みながらやり、ドイツ人からは「死のラーゲル」として恐れられていた所です。今考えてもぞっとします。戦争は個人にいかに苦しみを与えるかまた人間の幸・不幸の分れ目は一寸したタイミングのづれなど運命のいたづらによってもたらせられる場合があることを身をもって体験しました。


 三、第一の人生

 二十三年七月に会社に復帰しました。世の中の余りの変りように浦島太郎のような感じでした。新宿など歩くと進駐軍が日本女性と手をつないで行くのをみても誰も不思議に思はない。自分だけがにがにがしく思ったりしたことを思い出します。
 会社の方は財閥解体・集中排除法によって各事業所は東京にそれぞれ出張所を開設、私はそこで船舶営業を担当、戦争で皆無に等しくなった船舶の建造が石炭採掘とともに、国の重点産業となり、毎日夜遅く忙しい日が続き新婚生活どころではなく仕事に無我無中で過ごした時代でした。

 その后朝鮮戦争、それがおさまると不況、少し経ってスエズ動乱勃発、急に日本経済は活況を呈し動乱終了后は再び不況、それから高度成長を経てオイルショックの襲来、再び不況、各社は減量経営に躍起となった時代を経験しました。その間丁度高度成長への過渡期に私は定年近くとなり(当時は五五歳)、四六年四月取引先の中小船社(全く他人の会社)に出向、これが第二の人生の始まりです。今から思えば第一の人生は良き時代であったと思います。
 私は営業担当であったため落着いた仕事もできず忙しい毎日でしたが、客先相手の接待で一流料亭にもしばしば出入りし派手にも見えましたが最近の話をきくと接待もかなり渋くなっているようです。必要に迫られて、麻雀・ダンス・ゴルフ・小唄・日本舞踊と手当り次第何でもかじりましたが、性来この方は至って不器用らしく必要がなくなればやめてしまって今では単なる過去の思い出にすぎません。


 四、第二の人生

 三菱重工時代は仕事の大半が船舶関係であったため、結局先にものべた通り得意先の中小船会社に再就職したが、いざ入社してみると船そのものの現物はよく分っていても、メーカーとユーザーの違いは大きく、自分の持って居た知識は二〇%位しか役に立たず船舶運航・海上荷物の集荷・船員管理等全く素人で五五歳からの手習いでましてや大企業のやり方と中小企業のやり方のギャップに戸惑い、しかも創始者でオーナーのワンマン経営、不況になると(船会社は不況の時期が長く好況の期間はほんの僅か)危機感でいつも発破をかけられました。私の知っている限りでも十八社が倒産したことも事実で三六五日緊張感で過ごさざるを得ず、冠婚葬祭・病気以外は休暇など思いもよらず少々私もいや気がさしたことも何度かありましたが、この年になっては何処に行っても同じであろうと半ば諦め気分になって忍耐・我慢をモットーとして過ごし、気がついたら丸九年間が過ぎ去り、その間六〇歳台の他の同僚役員二人は故人となり六〇歳以上はオーナー社長と私の二人になっていました。
 故人となった二人は休暇もとらず働き通しで、あるべき生命を縮めたことは確かで社内の噂にものぼっておりました。職場から墓場直行では何んのために働いてきたのかというごく素朴な疑問が出始め五五年三月末タイミング良く六四・五歳で円満退職の運びとなり、早速わが家庭懸案の海外旅行(ヨーロッパとハワイ)に家内と一緒に行きました。よくも長い間こつこつと働いたものだとわれながら感心する一方、なんと融通のきかない平凡な人間だとあきれるやらでした。

 あくせくするだけの人生なんておよそ意味がないということでたとえ働く職場があったとしても、少くとも半年間は就職しないという決意のもとに自適生活(悠々とはゆきませんが)に入り、朝は気まゝに起床、あとは読書、散歩・図書館等で自由な生活を過ごしました。
 始めの中は実にいい気分でしたが半年もすぎると社会から疎外され忘れられてゆくような何んとなくやりきれない淋しい気分になり、やはり少しは働かないと駄目だということで今度は年相応の適職を探がそうと再び就職運動をはじめました。幸い元の職場である三菱重工の知人の世話で第三の人生に入ることになりました。日本人は特殊な例外を除いて大方の人は老後の過ごし方が外人のように楽しくゆったりと過ごすことができず何んとなくこせこせしておりその点まだまだ後進国であると思います。


 五、第三の人生

 以上の経過をたどって、今度こそは適度な精神的肉体的労働の適職をという積りで給料も自分から下げて本年二月より再々就職をして現在働いて居ります。
 余り忙しくなく、さればといって身体をもて余すことなく適度な仕事量が必要ですが現実には仲々そうはゆきません。第二の人生で創始者ワンマン型中小企業のなかで生きてゆくことの難しさには、かなり慣れていた筈でしたが、いざ新しい職場に入ってみるとまたそれなりに気を使い余り呑気に過ごすわけにもゆきません。現実は厳しいものですが、できるだけ悠々と平凡ではありますが、悔のない人生を送りたいものです。
 過ぎ去った四〇年の過去を省みて色々と考えながら体験もしたつもりですが、わが生涯の大半を費やしたサラリーマンという職業は結局のところ平凡でよく云えば堅実なある意味では気楽な稼業ということになるだろうと思います。スペース・シャトルの打上げも成功し、一方人口の増加はさけられずこれからの時代はどのように変ってゆくのでしうか・・・・・.。

 


卒業25周年記念アルバムより