7組 金原 昌夫 |
われわれの若き時代には、戦争の直撃を受け、辛うじて生き残れたとしても、波乱万丈の運命を余儀なくされた方が多いことと思います。私も前半生は数奇な運命を辿り、幾度も死に直面しました。 生れが信州でしたので、地の利を得て、あちこちの高山へ登り、山の気分を満喫していました。学部三年の時、北アルプスをあちこち歩き廻り、無謀にも槍ヶ岳の雪渓をすべり降りて、大怪我をしました。もう一米ほど右側をすべり降りたら大岩に激突して一巻の終りでした。バンドはちぎれ、時計はどこかへスッ飛んで散々でした。 第一回の出来事がこれです。 二回目は戦争によってです。私は小さい頃より地理が大好きで、就職の時は海外へと心にきめておりました。自分の希望とは少しへだたりがあったが最初に日本窒素肥料の子会社の鴨緑江水電ソウル(京城)本社に就職しました。 赴任して半年、昭和十七年夏現地召集で竜山部隊に入れられ、補充隊から野戦隊へ移され、昭和十七年も暮に出征して、パラオ島で半年ほど駐屯訓練を受けて、死のニューギニアヘ。食物は不自由を極め、生きるのが精一杯のような状態で重労働、強行軍、その上前進するに従って、日曜日を除いて、毎日欠かさず百機を越える編隊の絨毯爆撃を受け、戦友の戦病死や戦死を、明日はわが身と葬送したものです。 そのうち私も例外たり得ず、重いマラリヤに罹り、高熱続きのため、戦友の作ってくれた、オモユのような粥すらも、咽喉を通らず、生死の境をさまよって居りました。そんな夕方、病死せずとも生還の可能性は絶無に近いので、どうせ死ぬならと、日頃我慢に我慢を重ねて一回に一口くらいしか飲まなかった水筒の水を、一度に全部飲み、死ぬ時までととって置いたカビだらけの本物の煙草も全部戦友に分けてやって了いました。 ところが、夜中にふと目がさめると、月がこうこうと輝いて、ハッキリ見えるではありませんか。熱が下ったのでした。ところがもう一つ、急性赤痢に必然的にかかり、爆撃中も、人工便所へ、歩けない程衰弱のため這って往復しつづけたものでした。そんな状態で生き続けている中、ある夕方珍らしくもトラックが一台やって来て、重症のものだけ乗せられました。私なども荷物同然に担ぎ上げられ、後方へ後方へと送りかえされました。 あれはマダンの野戦病院の出来事でした。野戦病院といっても、ジャングルの中ヘテントを張っただけのものです。 ある午下り、突然集合ラッパが鳴り渡り、動けない患者を除いて全員集合です。総勢一OO名を越す患者を一列に並べ番号をかけさせ、折半して、前から半分は明朝前進、後半分は明朝後退との事です。私は、その頃ようやく歩けるようにはなったが、負傷もしていて、後から二三人目のところにくっついていたので、明朝後退したのですが、前進組は、その後利のない戦で、恐らく全員戦死したのではないかと思うと、軍隊とは運隊なりとはいゝながら、人生の無情を感じないではいられませんでした。 なお、前半分は元気がよいから戦列復帰との事です。それから、漸次後退し、パラオ島を経て、敵の潜水艦の攻撃を受けつつも、広島に帰還して、九死に一生を得ました。 それからソウルヘ再赴任して、引揚という事も味わい、戦争、引揚、会社がなくなったので商売を始めたような次第の無理がたたって、肺結核に罹り、右肺上葉を切除する手術を受け、この時もかなり死に接近したのですが、何とか切り抜けることができ、結核は全快しました。 療養中に晩学を始め、以後商売をやりつつ、公認会計士二次試験、三次試験と、かなり時間をかけ、今から思うと、命を省みない、随分野謀な試みだったと思っています。 南海派遣軍とあって、旧制中学の名簿には、黒枠がはめられたような始末の命を、これからは少し大事にして行こうと思っています。聖サンフランシスコ病院長秋月辰一郎博士によれば、博士は若い頃は、病弱そのものだった体質を、食物によって改造して、強力な体質となるように努め、結核もなおし、原爆症にもならずに頑張って来ているとの事です。 よき食生活によって、何時の間にか、病気に負けない体質、薬の効きやすい身体ができ上ることを強調されています。 このことに是非あやかりたいと思っております。 |
卒業25周年記念アルバムより |