7組  鴨田 保美

 

 昭和五十四年二月十八日午前○時半、前夜二十二時北京駅を発車した吉林行急行列車は予定より約二時間遅れて吉林駅に到着した。真夜中の駅頭は二月と云うのにそれ程寒さを感じたかった。私達一行十九名を乗せたトヨタマイクロバスは暗い市内を約二十分走り松花江に面した迎賓館に到着した。あゝ吉林に来たのだ。今度の旅行が決定後、何度も夢に見た第二の故郷、いや私には故郷そのものである吉林に着いた喜びと興奮に二十数時間の長旅にも不拘年甲斐もなく仲々その夜は寝付かれなかった。

 吉林、その地名は当時日本には全く知れてなかった北満の小さな町であったが、背後にある長白山系の千古斧鋏を入れぬ豊富な木材が市内を貫流する松花江の舟運を利用して送られ北満の木材の集散地として知られて居た。

 この町に両親と共に第一歩を印したのは、大正十四年春未だ浅い三月でその時、私は小学校二年を終了した許りであった。爾来、昭和十六年十二月繰上げ卒業式直後帰宅、あわただしい正月の一週間を両親、兄妹弟と共に過した後、何れの日か再び吾が家の敷居を跨ぐ事が出来るであろうと一七年一月五日厳寒の吉林を後にする迄の十数年間の少年時代を過した故郷である。

 両親が吉林に居を構えた大正末期の中国は、何時果てるともなく内戦が続き一九二六年(大正十五年)蒋介石の国民軍が北伐開始の兵を進め、翌年には国民軍の上海、南京占領の報が伝わった。一九二八年(昭和三年)には張作霖の爆死事件があり吉林も一時騒然とした事を記憶して居る。
 同年秋国民軍が北京に入城して蒋介石が主席の座に着いた。一九三一年には満州事変が勃発した。翌年三月満州建国が宣言された。

 建国に続く終戦迄の約十数年に及ぶ激動の時代に吉林も亦大きな歴史の流れの中で、北満の小都市から交通の要衝工業都市として大躍進を遂げ人口も急増し市街も整備され面目を一新して行った。が終戦後の国共の打続く内紛その後は共産主義の厚いべールに覆はれ、中国内部をかい間見る事も出来なかった。特に北満地域は全く閉ざされたままで生涯吉林を訪れる事など全く不可能であろうと考えて居た。一九七二年日中国交回復と共に、何れの日か想い出の町吉林を訪れるチャンスもあろうと淡い希望を持つ様になった。一九七九年二月合成樹脂業界視察団の一員として実に三十八年振りに故郷の土を踏む事が出来たのだ。タイムマシンに乗って三十八年間を逆行した思いだった。

 吉林は長春(新京)の北東約一〇〇粁に位置し当時、満鉄(南満洲鉄道)が中国より経営を委任されて居た吉長鉄道(吉林-長春、後北朝鮮の圖們まで延長され京圖線と呼ばれた)で約三時間の行程であった。町は松花江の上流にある景勝の地で、遠く明王朝時代から開かれた東北地方最古の町である。一九一三年吉林県となり、一九一九年永吉県と改称されたが満洲国建国後は吉林となった。

 吉林市街は城壁で囲まれ域内と城外とに分れて居た城の型が琵琶の形をして居たので琵琶城とも称された。城壁は可成り高く東に小東門、新開門、北に北極門、西に徳勝門があり、南は松花江に面して居た。
 町は北に小白山等の山を背負い南に小高い龍潭山があり、西北端に町を代表する北山があり、松花江が町をS字型に貫流し満洲でも稀に見る風光明眉の地で満洲の京都、山紫水明の都と称された。北山の山頂に関帝廟があり、ここから市内が一望のもとに眺められ数千年の歴史を秘めた松花江が悠々と流れて居る景勝は正に古都吉林にふさわしい眺望であった。又北山は夏になると有名な満洲三大娘々祭(ニャンニャンまつり)が盛大に行はれさしもの広い北山も人で埋まる程の賑わいを呈した。

 気候は所謂大陸型で夏は大体三〇度Cを超える酷暑が続き雨も少い。北満の秋は短くあっと云う間に冬が訪れ十月初旬には早くもペチカストーブが焚かれ十二月の声が聞えやがて本格的な冬将軍の訪れと共に、松花江は完全に結氷し航行は不可能となり、人馬共に江上を自由に往来出来た。冬の気温は大体マイナス一〇〜一五Cで時にマイナスニ五Cを超す事も珍しくない。学校では校庭に散水してスケート場を作り冬の運動は専らスケ一ト遊びであった。春の訪れと共に厚さ数米にも達した氷が解け、互にぶつかり合い時に水しぶきを挙げ乍ら流れる壮観さは筆舌に尽し難い。

 私が小学校に通って居た頃の吉林には日本人が一〇〇〇名前後で生徒も一〇〇名に満たず校長先生以下五名の先生が居られた。授業は一人の先生が学年の違う生徒を別々に要領よく教えて下さった。謂はば今日の云うマンツーマンの寺子屋式教育の為に先生の全人格が投影された理想的な教育であったと、今も感謝して居る。三-四年生の時に教えて戴いた汾陽(かわみなみ)先生が今尚健在で矍鑠として居られ時々お目にかかって居るが、魚本君が先生と姻戚関係にある事を伺い奇縁とはこの様な次第かと世の中は広い様で狭いものだと実感した。

 松花江岸の柳は美しい装ひをこらした樹氷となって私達の目を楽しましてくれた。その日私は豊満ダム見学に行く一行と分れ、中国側が厚意的に提供してくれた自動車で市内を巡回した。二月の中旬とは思へない暖い日で私は外套を脱ぎ手袋もはずし四十年前の記憶にある土地勘そのままに江岸を南下し松花江橋を右に見て橋を反対方向江南大街に車を走らせた。十分足らずで旧日本総領事館の赤い練瓦塀の見える四ツ辻に下りた。四ツ辻の右側に領事館塀に面して、同じ赤練瓦で建てられた二階建の旧我が家の前に立った。
 建築以来既に半世紀余を経過して居るにも不拘外観は当時のままのたたずまいを見せて居た。両親が大正十五年建築以来、昭和二十一年十月帰国までの二十余年間、父の六九年の生涯の中、最も充実した生活を営み敗戦後は筆舌に尽し難い悲惨な生活を余儀なくされた住居を目のあたりにしてその瞬間一度に四十年前の諸々の記憶が走馬燈の如く私の脳裡を去来し、しばらくの間私は其処に佇立して居た。何時の間にか黒山の如く中国人が私の周囲を取りまいて居た。

 旧我が家の内部に入る事を許されないまま万感の想いを胸に懐いて家を後に向い側の赤練瓦の瀟洒な旧総領事館公舎に足を運んだ。大きな鉄制の扉は往時のままであった。入口には吉林医科大学の文字が墨痕鮮かに挙げられて居たが建物の中には学生らしい人影は余り見受けられずひっそりとして居た。
 次いで想い出の小学校を尋ねたが、此処と覚しき場所には立派な三階建の中学校舎があり、今も尚鮮明に記憶に残って居るなつかしき学舎の面影を偲ぶ由もなかった。又当時唯一の総合病院として日本人は勿論中国人からも信頼を集めて居た旧満鉄病院は白壁こそ幾分薄汚れて居たが、特徴のある青瓦の屋根は昔のままに輝き病院として建在であった。吉林駅も昔のまま。

 駅を後に吉林のシンボルと云はれた北山に車を走らせた。当日の暖さに北山に登る坂道の雪が解け車は時々スリップし乍ら漸く山頂にたどり着いた。折から生憎薄雲が拡がりはじめたが、市街を一望に収める事が出来た。四十年振りに見る町は様相を一変して居た。
 町を城内外に区分して居た城壁は跡形もなく完全に取崩され松花江には市街の中心地江南大街から一直線に幅員二〇米の大鉄橋が架設され対岸には植物園、科学博物館、学校等の公共施設を始め人家が建ち並び賑いを呈し京図線の鉄橋附近には吉林化学工業公司を中心に化学肥料薬品プラスチック等の工場が櫛比して居る。之等の工場群は日本が北満に残した唯一の日中交流のしンボルとして永遠に記憶されるべきもの即ち松花江上流に建設された豊満ダムの豊富な電力を活用して次々に開発建設されたものである。吉林は往時の風光明眉の都市に加えて、今や一大工業都市として発展しつつある事を初めて認識し四十年の歴史の重みを痛感した。

 迎賓館で私が故郷をゆっくり巡回出来た事を告げると中食は謂はば私への里帰りの祝宴となった。食後次の目的地長春に向け吉林駅を発車、何年かの後もう一度訪ね度いと思い乍ら、私は何時の間にか雪がちらちら落ちて来たのも忘れて、何時迄もデッキに立って遠ざかり行く吉林に別れを告げて居た……
 長春の町は雪に埋って居た。……

 


卒業25周年記念アルバムより