7組  木村 久雄

 

 十二月クラブ文集編集委員長倉垣修君から格調高い寄稿依頼文を受けた時、私はすぐ第八期海軍二年現役主計士官の同期生で作った文集、「破竹」のことを思い出しました。

 「破竹」は八期をもじったものですが、其の時どうにも筆が進まなかった事を思い出したのです。
 同期のうちうちの行事だったので、第一次ソロモン海戦の戦記の如きものを寄稿はしたのですが、何故筆が進まなかったのでしようか。戦争の忌はしさもあったと思はれますし、又前線よりむしろ銑後の方が苦しんだのではないかという思いもあったでしょう。

 然し、今になって考えますと、必ずしもこれだけの理由ではなかったようです。やはり時流の赴くままに身を委ねざるを得なかった当時の自分に対する憤りのようなものがあったからだと思います。
 海軍同期生の友情や連帯感は益々かたく、私にとって貴重なものではありますが、残念ながら鮮明に「自分」があった時代とは申せません。

 これは勿論、戦争の激化が大きな要因であったに違いはないのですが、二・二六事件のあった昭和十一年に始まり、大東亜戦争突入の昭和十六年十二月に終る私共の学生々活だって戦時色ふんぷんたる激動の時代だったのです。

 国立の学園は何ものかによって守られていたのではないでしょうか。それは一橋の伝統であり、「学問の自由」を死守して下さった教授、先輩であり、又国立という立地だったのではないかと思います。あのいやな軍事教練でさえ、一橋ではユーモアがありました。私は野外演習で斥候に出されたのですが、皆腰高で歩いていたらしく、講評の時、「先程の鶴の一群は全員戦死」、と宣告された事を記憶しています。あのいかめしい配属将校さえ、一橋の中ではユーモアを解するゆとりを持ち得たのではないでしようか。

 最近、私は昭和三十五年、福田徳三先生の三十周忌に当って出版された「福田徳三先生の追憶」という本を手に入れ、一気に通読し、心から感動したものです。当時の学生の先生に対する礼讃と渇仰、自由にして奔放なまでの論戦と辛辣な批判、学問に対する真情と純情、そして師と弟子との間のほとばしる様な愛情に接しました。

 先生は、夭折した弟子南嘉一氏の下宿を弔問されて、額を覆いてあった白布をとり、その死面にキスをされ、やがて声を出されて、「南君、すまない。わしが君を殺したも同じだ」、と叫ばれたそうです。
 先生が峻烈すぎる程の御自分の指導を悔まれたとも解せられますが、恐らくは前途有為の青年学徒を失った事に対するくやしさが此の様な叫びになったのだと思います。

 此の本の寄稿者は、藤本幸太郎先生に始まり、吹田順助、山口茂、井藤半弥、赤松要、上原専禄、中山伊知郎、等々錚々たる諸先生や、菅礼之助(私の亡父は菅さんと同期でした)、酒井杏之助、武井大助、等々の大先輩が網羅されています。私ども十二月クラブの連中はこれ等の方に教えを受け、又導かれたのです。

 仮令、授業はサボッても何かを読み、何かを聴き、そして自由と真理を求めないではいられなかったのは、やはり学園の伝統から来るものだったのではないでしょうか。五年九ヶ月、私どもは自由であり、闊達であり、のびやかであったと思います。「自分」があった時代と申せましよう。

 ○ 小企業に埋没の弁

 前述しました「福田先生の追憶」の中で、菅礼之助さんは次のように書いておられます。
 「先生が繰り返し繰り返し云はれたことは、我は教育者なりと云うことであった。キャプテン・オブ・インダストリーをつくること。是ばかりは過去三十年忘るゝ日とて無き我が使命なり、我が職分なり、と文字通り熱涙をこめて仰せられた。」と。

 これには私も参りました。正に私は先達の言葉に反してしまったのです。戦后復帰した三井物産に勤務すること僅に数ヶ月、「キャプテン」志向を振り捨てゝ、以来三十数年零細企業にどっぷりと漬ってしまいました。別にそれを望んだのではありません。やはり運命だったのだと思います。

 私は人から聞かれると、「私は中小企業の失敗者だ」と答えることにしています。本当にそうだと思っているのです。たヾ六十歳になって「失敗者」なりに生き甲斐を見付けようと考えたことは幸いだったと感じております。

 色々理由はありましたが、考える処あって二十年間やってきた同族の会社を辞めたのは、つい、三年前のことでした。そして若い人をまじえ、五人ばかりの仲間で設立したのが今の会社です。

 六十歳と云えば、寿命が延びた昨今でも、人生の終盤戦には違いありません。私は今、其の終盤に入ってやっと仕事の中に「自分」を見出し得たような気がしています。私の人生で鮮明に「自分」があった時期、それは序盤の一橋時代であり、終盤の現在だと云うことになります。

 前途不安材料山積で、一寸先は闇の感はありますが、若しこのまま順調にゆけば、思い上った云い方ですが、私の人生もなんとかハッピーエンドに持ってゆけそうな気がしています。

 さて、今の会社を設立したのは昭和五十三年五月のことでしたが、其の時私達が考えたのは次の五つの事でした。

1. 従業員なしの経営者集団とし、利益配分組合のような考え方でゆく。従ってパイが大きければ分け前も大きく、小さければ小さくする。

2. 利益の分配は年齢、役職をネグレクト、平等を建前とする。且つ世間相場(就中、春闘相場)に影響されない。

3. 経営者全員平等な立場とする。法律上、又対外的な必要から誰かが社長を名乗らねばならないが、あくまで「誰が社長という貧乏くじを引くか。」という考え方に徹する。

4. 代表者という貧乏くじを引いた事によって生ずるリスク負担に対しては役員報酬とは別途に補償する。

5. 商売上の制約はあるにしても、権力に対する過度のへつらいやおもねり御法度。

 実業界で永年の経験を積んでこられた学友諸君から見れば、まことに児戯に等しく、噴飯物と思はれることでしよう。然し、当人は結構真面目な気持で、試行錯誤的に取組んでみました。やってみて三年、小企業経営のノーハウのような積りで楽しんでいる次第です。

 分配については、少々調整をやり過ぎて、税理士さんから「利益調整」と見られるとのお小言をいただきましたが、先づ第一に貧乏くじの社長から早く抜け出したい気持になるので、ワンマンと老害回避に効果的であり、又正しいと思ったことは取引先に対しても余り修飾せずに直言する習慣をつけてみると、案外分って貰えるし、ストレス解消にもなって今の処、まづまづうまくいっている様な気がしています。私自身こう決めてしまうと、金銭慾がうすれ、若い人と共に仕事を楽しむ心境になってきたようです。

 現在、常勤役員五名、パートの女性一名、他に従業員なし、今のやり方であと二-三名は経営者をふやせるでしょうが、それ以上になった場合のノーハウには自信がありません。
 又、私の残る人生では間に合いそうもありません。然し、将来私の若いパートナーが自分達で考えてくれる事と思います。

 思えば、バラ色の一橋時代と現在の中間にある三十二年間の空白は何だったのでしょうか。自分は車を乗り廻して結構だったけれど、従業員は蔭でブツブツ。同族経営者だけが欲張ってみても所詮は空しさだけが残る事を顧みますと、六十歳では遅すぎたとしても気付いただけよかったと思っている今日此の頃です。

 大企業の経営者諸君!・大企業に育った学友諸君!
 明日に希望のもてぬ多くの小企業従業員に思いをはせてくれ給え。或いは大企業の中にも同じ思いの人がいるかも知れませんゾ。


 〇 一橋えの願い。

 以上「負け犬の遠吠え」はこの位にして、三度「福田徳三先生の追憶」に触れます。山口茂先生は此の本えの寄稿の中で「福田先生をはじめ、多くの先生が一丸となって学問的伝統を培はれたからこそ、今日の一橋大学があるのであろう。私は今日の母校をになう先生がたに福田先生をめぐる伝統と母校の歴史を知って頂きたいものだと思う。」と述べておられます。

 私は、此の本を読んで、此の本自身立派な教科書であり、経済学其のものである様な気さえしました。今、世の中は万事単一化され規格化され、そしてコンパクト化されています。うっかりすると学生までそうされてしまいそうです。

 私は、一橋の教育の中に、一橋の先人の教えや建学の精神を盛り込んでほしいと願ってやみません。先達のスケールの大きさ、視野の広さ、情熱、闘魂、気慨、叡智、等々いつまでも受け継いでほしいと思います。

 私は、せまい入江に迷い込んだまま出られなくなったイルカであり、これは真似てほしくありません。だからと云って、これからの一橋人が歴史のある一部安定優良企業に集中したり、一つの企業や一つの官庁の中でのまとまりを誇ったりすること(杷憂であれば幸ですが)には賛成出来ません。

 もっと広い分野、新しい領域に散らばって、型破りでもいゝ、豪快に大きくはばたいてほしいと念願します。

 



卒業25周年記念アルバムより