7組  佐田 健造

 

 昭和十四年四月、彦根高商から一浪して一橋に入学した私は、高商で同期で一年前に入学した中山君に下宿をさがして貰った。彼がきめてくれた下宿が、吉祥寺駅南口から徒歩で三・四分位の井の頭公園のすぐ側にある「清涼庵」という一見下宿屋らしからぬ家であった。当時、吉祥寺駅南口は広い空地で、それを斜めに横断して清涼庵へ行けた。

 この家は風流な門を入ると三十坪位の庭があり、門を入ってすぐ右手に赤い鳥居のあるお稲荷様の祠があった。その前を飛石伝いに数米行くと母屋の玄関がある。母屋は平家の木造家屋で、玄関を入った所が比較的広い日本間である。大きな食卓と長火鉢があった。長火鉢の前に五十歳位のおばさんが煙管を手にして坐っていた。
 彼女が清涼庵の主人で、若い時はさだめし美人であったと思はれる瓜実顔の姥桜である。彼女は少女の時、秋田から上京して新橋で左褄をとっていたという。部屋の一隅に三味線が立てゝあった。

 母屋は食堂兼事務室で前述の部屋の他に四部屋程あり、おばあさんとその母という八十歳位のおばあさんと初ちゃんという二十歳位の体の大きな女中とが住んでいる他に、下宿人が三人入っていた。母屋から東の方に離家があり、四畳半の日本間四室と廊下の奥に十畳位の洋間があった。
 その離家の一室に私が入ることになった。東京にしては非常に閑静な所で緑の多い良い環境なので安心して荷物を解き入居した。下宿代は朝夕食付で月二十八円だったと思う。
 下宿人は私を含めて全部で六名で大部分学生であった。その夕食時、おばさんから他の同宿人に私を紹介された。私の関西なまりの言葉を皆に笑はれたが、私から言えばおばさんや初ちゃんの東北弁の方がずっとおかしかった。それから清涼庵での最初の夜を迎えたのであるが、夜半に公園の方角から甲高い女性の悲鳴がきこえて、目が覚めた。それから時々同様の悲鳴が聞えるので気味が悪くて眠れなかったが周辺の部屋の人々は静かに寝ている様子なので尋ねることも出来ずじっとしていた。そのうちに悲鳴もなくなり眠りについた。
 翌日下宿の人に尋ねると井の頭公園の中に小動物園があり、その中の鳥の悲鳴とのことである。後に公園へ行った時に小動物園を見て廻ったが、くちばしの大きなペリカンや毒々しい赤や緑や黄の模様のあるインコや尾長猿などがいたが、悲鳴の主はどれかついに解らなかった。それから次の日曜日に朝寝出来ると思っていたが八時頃から外が馬鹿に騒々しくて目が覚めた。何事かと思ったら陽春の気侯のよい時期の日曜日なので朝早くから井の頭公園に子供連れの人が大勢おしかけて来るのであった。

 それからある夕、食後おばさんや同宿人と雑談していると、玄関の扉を黙って明けて入り立っている男女があった。何かと不審に思っていたら、おばさんが大声で「うちは連れ込み旅館じゃないよ」と言った。男女はあわてゝそそくさと逃げて行ったので皆で大笑いした。
 その当時は井の頭公園の周辺には連れ込み旅館、今日でいうラブホテルが多かった。この下宿屋は名も清涼庵といい、門や家の造りからしてアベックが間違えるのも無理からぬことであった。

 私の部屋の隣室に専門部三年の鈴木という学生がいた。彼は尺八を吹いていた。私も興味があったので彼のすゝめで琴古流尺八同好会の一竹会に入会し、下宿でも彼の手ほどきを受けながら猛練習をした。そのお蔭で今日まで尺八を趣味として続けている。
 観世流の謡曲は中学時代から習っていたので、両方を交互にやることになった。月の美しいある夜「三井寺」か「小督」を謡っている時に停電したので途中でやめて燈りを貰いに行つた所、おばさんから何故暗譜で出来ないかと言われた。素人は暗譜で出来る曲目は極く限られたものだと言ったら、おばさんは若い頃、小唄は全部暗譜で習ったという。一つ教えて上げようというので、それから時々他の下宿人と一緒に「ひようたん」など二曲ほど習ったことがあった。

 私の部屋は東南の方に障子と雨戸があってその前に垣根があり小路をへだてて真向いに残野という成蹊高校(現成蹊大学)の教授のお宅があった。その夫人はドイツ人でエルマさんとか言った。ある夜、甲高い声で夫人がドイッ語でわめく声と教授の「馬鹿野郎」とか「畜生」とか怒鳴る声が聞えた。どうやら夫婦喧嘩のようであった。教授がドイツに留学中に夫人を見そめて結婚した由で、日常は夫婦の間はドイツ語で話しているのであろうが喧嘩となるとお互いに母国語でないとうまくまくし立てられないようである。

 夏休みまでは平穏な楽しい下宿生活をすごし七月上旬に帰省した。九月初め頃に上京して下宿の私の部屋に入って「あっ」とびっくりした。
 机の横の壁面に物々しいはり紙がしてあつた。読むと「この建物は原告鈴木某の申立により仮差押えされた。自今現状を一切変更したり使用処分してはいけない。但し現占有者に限りこの部屋の使用を認める」という趣旨で東京地方裁判所八王子支部?判事名で日付は七月下旬頃となっていたと記憶する。
 被告人として平元某(おばさんの本名)と私を含めて下宿人全員の氏名が連ねて記されてあった。驚いておばさんに尋ねると、十年程前に元の旦那が吉祥寺の土地建物を呉れてやるから下宿屋でもやったらどうかと話され、貰った積りで母屋の方は建てなおし離家も少し増築して下宿屋を始めたそうである。最近その男の甥の鈴木某からここの土地建物の明渡しの訴訟を起してきた。
「あなた方下宿人には迷惑をかけないから出来るだけ永くいて欲しい」
 と懇願された。
 その夜おばさんの実母の八十歳位のおばあさんが私達下宿人の各部屋を訪ねて廻り愚痴とお願いを言いに来た。その話によるとおばさんは十五・六歳頃に秋田から東京の新橋にきて芸者になった。二十歳すぎに旦那が出来て三十歳頃ひかされてその旦那の二号さんになった。その後四十歳位になると旦那も秋風が吹き始めたらしく、寝物語りにここの土地建物を貰う約束となった。恐らく手切金代りであろう。
「あんな男にだまされるな」
 と実母は忠告していたのに娘は男の話を真に受けて貰った家を改築したり増築したりして下宿屋を始めたが、それ以後旦那とはすっかり切れてしまった。
 十年も経ってから前に渡した土地建物を取り返そうとして登記面を甥の名義にして明渡しを請求してきた。
「娘は法律の知識もなく困っているので相談にのってやって欲しい」
 というのである。学生の分才で相談相手どころではなく、私達下宿人も被告となっているので、原告が若し勝訴になればやがて追い出されるかも知れないし、今まで払った下宿代も部屋代相当分は再請求されるかも知れない不安があった。

 一竹会々長常盤敏太教授の夫人は箏の師範なので尺八と合奏して頂くために一竹会員は天沼の教授のお宅を時々訪問した。その際、私の下宿の事件を教授に相談した。教授としては取るに足りぬ事件のようで私達下宿人は今後下宿代の受領証さえとっておけば大して心配ないということであった。

 それから後のある日に下宿へ帰ると離家の一番奥の洋間の扉の封印が破られて誰か入居した様子である。(洋間は仮差押えの際、空室だったので執達吏が扉に封印し扉の表面に仮差押えのはり紙がしてあった。)
 おばさんの話では元警部とかで近くのアパートにいたが事情があって突然部屋を貸してくれと云って入居した由である。その夜八時頃に子供連れの女性(男の妻子らしい)が洋間を訪ねてきた。しばらくしたら夫婦喧嘩を始めたらしく、わめいたり、取っ組み合ったり、物を投げつけたりするような物音がした。夫婦喧嘩の仲裁をするような年長の下宿人はいないので、皆各々の部屋で、どうなることかと片ずをのんでじっと様子をうかがっていた。そのうちに妻君らしい女が子供を連れて泣く泣く元のアパートの方へ立ち去った。
 その翌日、再び驚いたことに、執達吏が巡視に来たらしく、例の洋間に入っていた元警部の荷物の蒲団や机などを全部廊下や庭に放り出し、再び元の通り扉に封印し、はり紙もしてあった。その夕、元警部が帰ってきてその有様を見てうろたえておばさんの所へ行き永く話し込んでいた。その男にしては妻子と別れるし、今更おめおめ妻君のいるアパートヘ戻る訳にもいかず「泣き面に蜂」であったであろう。その男が今回の訴訟の事情をくわしくきいて、元警部であった関係である程度法律知識もあり、おばさんの相談相手となり弁護士も斡旋したようであった。

 この事件はおばさんが全く法律知識がなくて口頭だけで土地建物を譲り受けたと思い込んでいたことから始まる。したがって不動産登記面はここの土地建物は元の旦那の名義のままになっていた。移転登記をしないままで母屋の棟は元の家屋をとりこわし、一部元の材料を使用したものの現在の建物は別の新しい建物である。ただ建坪が元の建物と殆んど同じであった。しかも登記面は元の所有者である旦那の名義そのままであり、新しい建物の保存登記もしていないので第三者に対抗要件がない。その点でこの訴訟は清涼庵のおばさんには不利のように思われた。
 現在登記面にある母屋の建物は既に滅失しているし、現存する建物はおばさんが新に建てたものであるがその立証は被告側でしなければならない。しかも原告は元の所有者の甥であり必ずしも善意の第三者とは言えない。おばさんは母屋を建てた大工など工事関係者をさがして証人に立てることを考えているようであった。

 それから数日後、女中の初ちゃんが逃げ出して行方が解らなくなったので、朝夕の食事の賄いを止められた。夕食は何とかなるが朝食には不自由した。近くのミルクホールでトーストを食べたり、吉祥寺駅北口の辺りの朝食をやっている食堂へ行ったりした。
 そのうちに下宿人は一人二人と転居して去って行った。清涼庵は仮差し押えを受けて以来、元からの下宿人が出た跡の部屋に他の人を下宿させることが出来ず収入が減る一方なので、私達に出来るだけ永く居てくれと懇願したが、食事のまかないを止められ不便であり、ここに居なくてはならない義理もないので、私もとうとう出ることにきめた。
 彦根高商から同時に一橋に入学した吉林君がお母さんと阿佐ヶ谷に住んでいたので、彼の住所を宛名に借りて「中央線沿線に素人下宿を求む。当方商大生」という三行広告を朝日新聞に出した。二、三日のうちに三十通余りの手紙がきて驚いた。次の日曜日に吉林君と一緒に五、六軒見て廻ったが、疲れたので、それ迄に見たうちで一番気に入った萩窪駅近くの天沼の宍倉という家の二階に入ることにきめた。引越の際の清涼庵のおばさんの淋しそうな顔が忘れられない。

 一年位後に裁判所から和議決定の通知が私も被告の一人であるので届いた。
 その内容は建物は二棟のうち母屋の一棟はおばさん(平元某)の所有権が認められた。土地と離家の建物は原告鈴木某の所有となったが、原告は引続き被告平元某に賃貸を認めるというものであった。清涼庵のおばさんには比較的有利な条件であり、引続き下宿屋を営むことが出来るようになったと思い、他人事乍ら安堵した。

 




卒業25周年記念アルバムより