7組 斎藤 一夫 |
学問や調査研究の真髄は研究対象から好奇心の満足を得ることではなく、対象の中に己れそのものを見出すことにあるようである。このような境地に達すれば、一見どのようにつまらない対象であっても研究者の魂に訴えその琴線に触れる。しかしこれはもちろん達人のみが到達し得る境地で、並の人間の望んで及ぶところではない。 並の人間に可能なことは魂に訴え琴線に触れるようものを研究対象に選ぶことである。こうすれば勉強に身が入り、能率も上る。しかしこれまた多くの場合高根の花にすぎない。よほどの幸運か父祖伝来の財産でもないかぎり、己れも食い妻子をも食わすためにはそのようなぜい沢が許されるはずがないからである。 並の人間に本当に可能なことは、せいぜい本業遂行の過程に含まれないいくばくかのチャンスを生かして右のようなものを追い求めることでしかない。しかしこれこそ並の研究者に与えられた冥利というものであろうと考える。私はこの二十年余アジア研究(専攻は農業問題、農業・経済開発)の過程において、幸いにもこうした研究者冥利を幾分か味わうことが出来た。 私の現地踏破の行動半径は東南アジア諸国に始まってしだいに南アジア諸国およびアフリカ、オセアニアの一部の国々に及んだが、これらの国々は私にとって知的好奇心の対象でこそあれ、もともとさきに述べたような魂に訴え琴線に触れるようなものは持ち合せていなかった(ときたま出合う第二次大戦のなまなましい戦跡だけは別であったが)。学問が未熟であるから特別の場合を除いて今後もまたそうであろう。 この特別の場合の最初は一九六五年の北インド糖業調査の折のことで、これが私の研究者冥利の最初にして最高のものであったと考えている。このときは一人旅で北インドの田舎をあちこち歩き回り、閑を盗んで仏跡やアショカピラーなども見学して印象深かったが、なかでも二人のインド人の案内で仏陀入滅の地クシナガラを訪れたときの印象は強烈でショックに近いものであった。ここはネパール領にはいる仏陀誕生の地に次いで接近しにくい場所で訪れる日本人は少ない。 各国仏教徒の寄進で建立された寺院はあまり感心しなかったが、入滅の現場、遺体をだびに付した現場には相違なく、そう思うと特別宗教心が厚いわけでもないのに全身の血のたぎる思いがした。自分でも先祖の血が体内でさわぐのであろうとまじめに考えたほどである。沙羅双樹があった(もちろん後代のもの、沙羅そのものは北インドにありふれた樹)。そこで記念撮影をしたが、同行のインド人の一人はやにわに双樹の一方によじのぼって数葉をむしり取りお土産に持って帰れという。公徳心にかけること甚しいと思ったが、拒むよりは何よりもそれが欲しかったので大事に戴いて帰った。また、だびの現場という河原に転がっている古い煉瓦のかけらも拾って持たせてくれた。このかけらと沙羅の押葉の二葉は額に収って今でも私の小さな書斎を飾っている。残りの数葉は私の話を信じてくれた田舎の叔父と京都の友人に贈った。いまでも保存されてあるかも知れない。 このほか、二度にわたって仏像発祥の地ガンダーラ地方を訪れることが出来たこと、またアフガニスタソ調査に際してサラン峠を越えて古都バルフの遺跡をたずねたこと(ここはまさにシルクロードの一端である)、その帰路残念ながら月夜の夜景しか見ることが出来なかったが、カラコルム山脈とタクラマカン砂漠を越えて空路北京に出たこと、など研究者冥利のうちに数えてよいであろう。おかげで日本文化、特に精神文化の最大の源流、いわば日本文化の頭(あたま)を垣間見る機会に恵まれたわけである。 昨年九月私は三十六年連れ添った妻を亡くした。さきに沙羅の押葉を贈った京都の友人は亡妻との面識もありいたくその死を悼んで、供養のため奈良の古寺を巡礼してありがたい古仏像を拝むことを薦め、また同行を約してくれた。あれこれの事情からのびのびになっていたが、今年の四月中旬にようやく短期間ながら実現することが出来た。会津八一の宿として有名な日吉館に宿を取って楽しい有益な数日を過すことが出来て感謝している。 飛鳥、白鳳、天平の文化は日本文化の原点である。日本文化がアジア大陸文化の尻っぽであるとすれば、それは尻っぽの頭ということになる。さきにインドとその周辺で日本文化のそもそもの頭を垣間見ることが出来たが、今回は国内でそのしっぽの頭をのぞくことが出来たわけで、そう考えると大変楽しい。一方では尻っぽの尻っぽから流れを遡り、他方では頭のほうから流れに沿って下り、出来ることなら現地をこの目で確かめ、かなわぬときは文献、映像、講話などで補いながら、日本文化の基底にあるものを自分なりに一貫して理解することを、本業のかたわらの余生の楽しみにしたいと思う。己れを知る近道でもあるし、亡妻への供養にもなることだから。 |
卒業25周年記念アルバムより |