7組 作花 慶一 |
陸軍に従軍した同期の諸兄の大方は、現役入隊後すぐ幹候試験に合格して予備士官学校等に転属し、見習士官を経て予備少尉に任官と、訓練のきびしさはともかくとしてスムースに進級された事でしょうが、私の場合は奇妙なコースを経て、やっとこさで小平の陸軍経理学校の校門に辿り着いた次第です。 と申すのはふとした機会に二等兵時代に物品販売所の当番兵になり、一等兵も勤めて経理学校に入ったのは二年兵になってからという慢々的進級でした。事務が主な仕事でしたので、ゆっくり一年余道草を食いながら軍隊生活のリズムに徐々に合わせていった形で、元来体が弱かった私のような者が諸兄と同時に入隊して、しぼられていたら陸軍病院に直行するかで、今日このような事を書いて居られたか疑わしいもので、「塞翁が馬」を地で行ったのは私であると思っております。 「おい、そこの兵隊、お前そろばんが出来るか。」 三ヶ月の基礎教育が終って同時に入隊した補充兵の殆どの者が戦地に転属してしまったある日の昼下がり物品販売所に掲示してある新聞を立読みしていた二等兵の私に声をかけた者があった。それは物品販売所の常当番木谷上等兵であった。 「はい、少しできますが何を計算するのですか。」私は中学校出身だったので、そろばんは余り達者でなかったけれどそう答えた。 「今、酒保品の棚卸をしている処だが、鉛筆のダースを本数に直してもらいたいのだ。」 暗算でも計算できる簡単な事でしたが神妙に算盤を使って棚卸表に書き込み帰る時に所属中隊を尋ねられた。 「第三中隊第二内務班作花二等兵です。」と答えて中隊に帰った。 私が入隊した部隊は、姫路の中部第五十四部隊でした。連隊と称してはいましたが、三箇中隊編成の輜重兵の補充隊で、歩兵隊の一箇大隊位な程度で、第一、第二中隊が挽馬隊、第三中隊は自動車隊でした。召集令状を受取った時にいよいよ愛馬進軍歌だと覚悟して入隊してみると、お前達は馬には関係がないと内務班長に言われてホット安心したものである。エンストしてよく殴られましたけれど、お蔭で今日でもポンコツ車を操縦しております。 棚卸を手伝ったその翌日から私は物品販売所の当番勤務を命じられた。多分常当番の木谷上等兵が物品販売所兼下士官集会所の班長奥軍曹に報告し、同じ第三中隊出身であった班長が早速中隊事務室で私の身上調査を見て人事係の森本少尉に頼んだと思う。 奥軍曹は神戸高商出身で物品販売所の帳簿を書くのが億劫になって私を採用してくれたという感じで、半年近くこの班長の下で働いて感じた事は、ブッキラ棒のような態度で部下に仕事を命じていたけれど私には目立たないように好意をもっていただいていたと思っていた。お互いに余り個人的な事を話さなかったので住所も聞かずに分れてしまって、その後会った事はない。軍隊で恩になった一人である。 物品販売所での主な仕事は、帳簿を記入する事であったが、そんなに時間がかかる事務量ではなかったので閑ができると色々な仕事を手伝った。演習の事を思うと楽な勤務で、窓硝子や椅子やテーブルを拭いたり、菓子を袋に入れたり、酒を樽から壜に移したり、文房具屋、日用雑貨屋、菓子屋、酒屋、うどん屋と何でもやらなければならなかった。 常当番の木谷上等兵はおとなしい人で、本職は理容師さんで連隊長や中隊長の散髪に引っばりだこで、お呼びがかかるとホイホイと飛び出して留守ばかりしていた。ここに勤務している間は何時も木谷上等兵に散髪をしていただき大変有難かった。 第一中隊出身の当番兵の中根一等兵は召集兵のおっさんで大変馬力のある人であった。聞けば神戸で工務店を経営している社長で、嘘か本当か知らないが、二号さんもあるとの話しであった。班長が在室の時は、口矢釜しく私達二等兵にやいやいと仕事をせかして自分独りで物品販売所を運営しているかのような態度をとって、班長が自転車に乗って物品の仕入か何かの用務で営外に出たとたんに、 「小休止、煙草をすえ。」と我々に声をかける面白い親分はだの人であった。(戦後この方は神戸市議会で副議長にもなった人物である) 当番で員数外的存在であったのは中川一等兵である。こぼれた馬糧を厩舎から拾い集めて鶏を飼うのが彼の主な仕事で、生卵を彼から受取ってノートに受払を書くのが私の仕事であった。 彼が六箇持って来ると私が一箇生のまま飲んで、受入は五箇と記入しておけばよろしいので、、私は何時でも卵を飲む事が出来たのである。ストツクになった卵は、時々連隊の経理委員の主座である荒尾大尉に一箇六銭で売渡した。専業の兵隊一人を使って一日に五、六箇生まれる卵を一箇に付き六銭で売っていたのでは、本当は大赤字であったけれど、臨時軍時費特別会計の枠外の経理であったので私も卵の余録を享受できたわけである。 この鶏当番中川一等兵は、ジェームス・ディーンによく似た面立ての兵隊で新潟県人であった。何故姫路のわが隊に転属して来たのか不思議でした。あとになって石油不足に因る増産政策のお蔭で石油採掘工であった彼に当番としては珍らしく召集解除の命令が出て急拠新潟の石油工場に復帰することになった。 彼の除隊の前夜に物品販売所と下士官集会所と炊事の班長以下当番全員で彼の送別会を開くことになった。彼の除隊をダシにして久しぶりにコンパをしたと言っていい。 会場を下士集にして物品販売所から酒と彼が作った卵を供出し、炊事から牛肉を持寄ってスキヤキ・パーティーと相成ったのである。日夕点呼後にこっそりと行なうのであるが、幸にも我が第三中隊長の坪田大尉が週番司令の日であった。 この中隊長は下士官から昇進した将校だったので兵隊生活の裏表がよくわかる方で、夜になって連隊本部に中隊長を訪ねて中川一等兵の送別会の件を諒承してもらい酒一本を進呈するのである。中隊長は衛兵司令に当夜下士官集会所附近に動哨を廻さないように命じるといった按配で事がはこぶのであった。 当夜の主賓である中川一等兵はその日は朝から鶏の世話はそっちのけにして何やら書いたものをブツブツ言って暗記しておった。それが彼の謝辞の文章であった。その日は鶏もさぞひもじい思いをした事であろう。 私も陸軍経理学校に転属する前に送別会をしてもらった。飯上げに来た週番上等兵をどなりちらしていた入墨の万年二等兵のおっかない炊事の兵隊も「立派な主計将校になってくれ」と送別の言葉を言ってくれた時、本当に皆いい人だったと思った。私がただの酒を都合してこっそり廻していたお礼の言葉だったのかも知れない。物品販売所(酒保)の当番は、商店の丁稚や番頭のような者であった。当時は物資欠乏時代であったので殆んどの物品が配給制で、内務班単位又は中隊単位に酒保品を引渡して代金を受取ればいいだけであった。昨今のお店のようなサービス精神は片鱗だになく、将に売ってやるといったでかい態度であった。原価販売を建前としていたので、一応利益になったのは中川一等兵の生卵位なものであった。 密柑の配給の場合は次のような具合である。自動貨車にバラ積みした密柑が降されると、これは天皇陛下用であるといって石炭箱一ばい別にして、残りをスコップで三つ山積みにして三箇中隊に引取りに来させるのであり、売価も仕切書の金額を三等分した額を各中隊に呈示して代金を持って来させるだけである。天皇陛下用の密柑は勿論われわれ当番兵の配給手数料となった。 毎日曜日の午後には酒を配給した。私は現在でも下戸ですが兵隊の唯一の楽しみは酒である事はよくわかっていた。内務班単位で飯盒を持参させてこの中に入れるのであるけれど、満タンにすると一升入るがこれをすると欠減損を生ずるので、中盒の線すなわち九合と一升の中間程度にするわけである。 毎回四斗樽を四、五本抜いてしまうのでおおよそ十数本一升壜に余剰が出来るが、その中の二本をアンパンを配送して来るパン屋のおじさんのパン箱の中に入れて持って帰らせるのである。その代り毎日入荷するパンの数が仕切書の数より十箇程度多くなって返って来る仕組になっていて、G-W-(G)でなくW-(W)という物々交換の形で、下戸の私もパンを随時たべることができた。 菓子屋の丁稚が菓子のつまみ食いをしなくなるように毎日パンを扱っておるとガツガツしなくなってしまった。配給で残った酒は毎回五本は炊事に廻し、残余は飲ん兵衛のお偉方に売ってその代金を酒屋に現品受領に行った時のヤミ酒購入資金に充当した。このような出鱈目をやって、飢と戦っているビルマ戦線のわが本隊の将兵に対して全く申訳ないと思ったものである。 かくして半年近く物品販売所の当番を勤めてやっと幹部候補生採用試験が行なわれる事に相成った。経理部の試問を受ける前に先づ輜重兵の幹候試験に合格する必要があった。試験が近づいたある日、私は中隊長に呼出された。前述のとおりこの中隊長にはよく酒を届けていたので私の氏素性は熟知されていた。 「お前は幹部候補生を志願しているが、内務班長の堀田軍曹はこの兵隊をよく知らないから内申書が書けないと申しておるけれど、自分はよくわかっておるから合格さしてやる。」 と中隊長は、当節の裏口入学のようなことを私に言ったものである。 私の学校教練の成績証明書には中学校、専門部、学部いづれも「士官適」となっておったし、基礎教育の三ヶ月の序列は、学科試験だけは抜群だったせいか教練の成績では甲乙が附けられなかったわけかトップだったので幹候試験には一応合格すると内心思っていたけれど、受験する前に合格とは不思議だったので 「試験はこれから行なわれるのに合格とはどうした事でありますか。」とすぐ尋ねてみた。 「俺が連隊の試験委員長だからだ。」 輜重兵の幹候試験は中隊長の先約どおり合格させていただき次は経理部幹部候補生の試験となった。これは師団の経理部の所管で学科試験だけであった。我が部隊から有資格者百名近く受験した。 「戦時における貯蓄の意義について論ぜよ」という論文も出題された。ヨーロッパ中世経済史専攻の私では少々難題でしたけれどそこは門前の小僧で何とか迷文をまとめて提出しました。この私の拙文でも一番経済理論的だったと講評された事をあとで知り、中山ゼミや山田ゼミの諸兄のものだったら全軍一の論文であったと思います。結果わが隊から六名経理部幹侯に合格し、歩兵隊に師団経理部の集合教育に三ヶ月分遣された後、甲幹三名乙幹三名に分かれた。 歩兵隊に分遣される日まで、私は引続いて物品販売所に勤務し、歩兵隊での集合教育が終って原隊に復帰して甲幹になるまで物品販売所に居り、甲幹になってからは連隊本部の経理室勤務を命じられ古巣の物品販売所を去ることとなった次第である。 わが隊の経理室は主計将校一名、主計下士官一名と算盤のできる兵長が助手として一名という構成で、我々候補生三名が経理学校に入るまで見習いとして経理事務を手伝った。 主計将校は荻野大蔵主計中尉であった。中尉といえば三十歳までの人であるが、何と四十二、三歳の召集将校であったけれど、私には幸いな事に大正十四年卒業の先輩であった。陰に陽に引立てていただき中隊長といい主計殿といい上司に恵まれていたものだと今でも感謝しておる次第です。 陸軍経理学校に転属する前日、中隊長に申告に行った際「経理部幹候は師団経理部の所管だったからお前はどうなるかと心配しておったけれど、ようやったので大変よろこんでおる。今後とも頑張れよ。」とはげましの言葉をいただいて中隊長と別れた。 明日は東京に出発するという原隊での最後の晩に、運悪く不寝番勤務が当った。「初年兵は沢山おるがの、つい先日入隊したばかりでの、勤務に付ける事が出来んでの、作花侯補生誠にすまんが不寝番をしてくれんかの。」が週番下士官の依頼であった。 私より古い兵隊は皆転属してしまって何時の間にか内務班最古参兵になっていた。最後に貧乏くじが当ったけれど不寝番の定位置に立ったり班内を見廻ることは止めて、専ら私物の梱包や靴下をつくろったり軍靴を磨いたりして時間をついやした。うるさいのは週番士官の巡察だけでとにかく居眠りだけはしないようにした。 翌朝、連隊長に転属の申告をして荻野主計中尉に見送られ一年余勤務した原隊の営門を出て東京に向ったのである。 私のような奇妙な軍隊生活は、いわば「丁稚時代ばかりでお払い箱」といったもので終りましたが、軍隊組織の底辺で蠢く兵隊の生活からお体裁ばかり気にした将校団の暮しぶりを物品販売所や連隊本部の経理室から垣間見る機会を得ることができ貴重な体験をしたと今でも思っております。 |
卒業25周年記念アルバムより |