7組  澤登 源治

 

 卒業後四十年の歳月が回想する暇もないままに過ぎ去ってLまったと云うのが実感である。それでも四十年の間にはいくつかの節目があった。

 まず最初の節目は四年間の海軍生活で始まった。偏平足では陸軍の強行軍にはとても耐えられまいと志願した梅軍主計中尉が初陣早々によもやミッドウエーで乗艦航空母艦赤城の沈没で流血の修羅場に遭遇するとは思いも及ばず、その後も重巡鳥海、ラバウルの艦隊司令部、クエゼリンの航空隊と前線勤務で死線を幾度かくぐり九死に一生を得たことは運命の不思議を思わざるを得ない。

 寄らば大樹の陰と信じきって入社した三井物産の解体、新会社(第一物産)への参加は結婚直後のことでもあり、人生の前途に非常な不安を感じたものであるが捨身でぶつかれば命運は自ら開けると云うことと日本民族の復興への勤勉さを痛感した。

 その後四年間の大阪支店生活では浪花の前垂掛けの商売のド根性を身をもって味わった次第である。幸い合格して五年間のブラジル生活へと転勤させられ海外合弁事業に若い日の情熱を燃焼させた。
 再び東京に舞い戻り四年後には米国勤務とニューヨーク、ロスアンゼルスと八年間の長い海外生活を過ごすこととなる。

 北海道で育った田舎者がとても自費では海外に行けぬと志望した商社勤務で望み通り南北米州を股にかけた長期間の海外生活を体験し得た訳であるがワイフを始め子供達の教育など家族ぐるみの協力と少なからぬ犠牲に対しては本当に感謝に堪えない次第であるが毎日が緊張の連続で仕事をやり遂げた満足感と様々の経験と外国の友人を得てやっと日本の土を踏み生活の落着きが出来たのは五四歳の時であった。

 人々はそれぞれ様々の人生経験を経て居られると思うが世界を股にかけたと云えば大袈裟であるが私も随分バラエティーに富んだ人生を体験したものとやっとこの頃になり過去の日の思い出を回想している昨今である。

 それにつけても世界中の各地で一橋の先輩、同僚、友人にどれ丈助けられ、励まされたか数知れぬものがある。サソパウロに於ける中村豊君、切田君、ニューヨークでも再度中村君と一緒になり、魚本君や度々出張して来られた松島君、或いはロスアンゼルスでもこの地を通過された多くのクラスメートとの交流など一橋なくして私の履歴書はあり得ないと思っている。

 第二の人生が秀れた先輩に恵まれて毎日が力一杯働らけるのも望外の仕合せであるが、四十周年を迎えて回想の涙で全てを美しく洗い流して、これからの幾許もない人生をフルにエンジョイしたいものである。

 


卒業25周年記念アルバムより