7組  篠原康次郎

 

 トルファン、ホータン、カシュガル、アクスと、砂ぼこりに風、ひどい乾燥そして炎熱の中を経巡って、さすがにいささかの疲労を覚えた私どもは、再びウルムチヘ戻ってホッとした気持ちになった。
 はじめに北京からウルムチヘ着いた時、こんな辺境の地にこんな大都会がとは思ったが、それでもやはりほこりっぽいうるおいのない街のような感じがした。しかし、今度は随分違う。やはり新彊ウイグル自治区の首都で、人口八十万の大都市であるとの感じがしきりであった。緑の並木それは他の都市と同じくポプラが多いが、広い道の両側に三列も四列も並んでいるし、空気も何となくきれいだ。陽の当たるところは相当暑いが、日陰はさらっとしてさわやかである。それに宿舎がすばらしい。私どもの宿舎は、街の中心部をはずれて街並みのちょっと途絶えたあたり、こんもりとした大きな林の中に点々と数棟建てられた迎賓館であった。この林は、中国が新政権になってから植林によって作られたというが、ポプラや楡の木が多く、所々にある花壇にはカンナ、百日草、マリーゴールド、コスモス、サルビアなどが色とりどりに咲き競っていた。

 さて、私どもは、新彊ウイグル自治区の旅の最後のまる一日を利用して、ウルムチの郊外七〇キロばかりのところにある天池に赴くことにした。ウルムチは、いわゆる天山北路に面しているから、天山山脈はウルムチの南側に連なっている。その東方の一角にボクタ山という標高五四四五メートルの高峰がそびえており天池はその中腹二千メートル余のところにある淡水湖である。つまり天山山脈の雪解け水が流れこんだもので、清澄な水をたたえ、緑と白雪に覆われた周囲の山々を映してすばらしい景観を形造っている。天山山脈の南側はタクラマカン砂漠に面して、一木一草をもとどめないような岩山となっているが、北側はところどころに自然林や草原がひろがっている。したがって、この一帯には、カザフ族や蒙古族など、現在でも遊牧を主としている民族が多い。天池の周辺でもこうした遊牧民の家である包を時々見かけた。移動する時には、馬や牛の背に包の柱や天幕などを分解したものをのせて歩くわけだが、そのような一行にもお目にかかることが出来た。南彊とよばれる天山山脈南側の砂漠地帯では、およそ見られない風景である。天池は、その昔周の穆(ぼく)王が西王母と宴を楽しんだという「瑤(よう)池」(玉の湖)に当たるといわれる。

 西王母というのは、神話上の女の仙人で、崑崙(こんろん)山に住み不死の薬を持っていたといわれるが、穆王と再会を約して歌ったというのが、「白雲天にあり、山川これに間(はさ)まる。ねがわくは子(きみ)死することなく、よくまた来たり給えかし。」で、穆天子伝に記されている。

 私どもが天池を訪れた日は雲一つなく、ぬけるような青空で、ボクタ山の見事な雪峰がくっきりと浮かび上がって見えた。ウルムチの市内を抜け出た私どもの冷房つき最新型マイクロバス(三菱自工製)は、左側に果てしないジュンガルの大平原、右側に天山の山々をながめながら、奇台県の方へ通ずる一本道を東北の方角にまっしぐらに進んでいった。道の両側には時々とうもろこしの畑があるが多くはゴビの砂漠や草原で、草原になると馬や牛それにラクダの放牧が見られる。私どもに珍らしいのはラクダの放牧で、それを車中からカメラにとろうとするけれども七、八○キロのスピードで走っている車の中からではとかくタイミングを失してしまう。そこで、少しでも早く草原地帯を見つけてカメラを構えようと、車の窓を開けてちょっと顔を出し、進行方向をのぞいた瞬間である。うっかりかぶったままであった私の白い帽子は、あっという間に強い風にさらわれてあれよあれよと見守る中で、遙か後方にヒラヒラと飛び去って見えなくなってしまった。この帽子は、昨年敦煙へ行った時もお伴をしたもので、.ここでなくすのはいかにも惜しいとは思ったが、もはやどうなるものでもない。隣にかけていたA氏が「あの帽子もラクダの餌にでもなりますか。」と、情けないことをいう。

 布製のたいした帽子でもなく、今回の旅行も終盤に来て十分役目は果たしたのだからと自分自身に言いきかせて、すっかり諦めてしまっていた。それからおよそ二、三十分間も走ったであろうか。天をつき上げるように伸びた美しいポプラの林のあるところで、私どもは小休止することになった。車から外へ出て大きく背のびをしていると、羊の群れが道路の傍をぞろぞろと通る。それを追っかけてカメラにおさめ、小走りに戻ってきた時である。
 同乗していた通訳のKさんが「これあなたのでしょう。」といって白い帽子を私に差し出した。見ると紛れもなくついさっきなくしたばかりの私の帽子なので、びっくりした。どうしたのですかと聞くと、結局こういうことなのである。
 このあたりの道路であるから、交通量はきわめて少ないのであるが、かなり離れて後続していたトラックに乗っていた人が、私の帽子の飛んだのを見たのであろうか、わざわざトラックをとめ、帽子を拾ってきて、たまたま小休止をしていた私どもの車に届けてくれたのであった。
 それではひと言でもお礼を言わなきゃというと、ああトラックはこれを手渡すとすぐに走り去ってしまいましたよと、こともなげに言う。私はとたんに何か熱いものが胸の中からこみ上げてくるような気がした。およそ考えられないようなことが現実に起こったという深い感動である。ところは、北京から二千八百キロも西方の辺境の地域であり、住民の大部分はウイグル族をはじめとする少数民族で、土地柄おしなべて生活水準は低い。それでも、砂や風や水と一生懸命に闘いながら、力強く生きている人々である。

 この街道をなおしばらく走ったところで、車は南に折れる道に入った。やがて道は急なのぼりとなり、近くを清冽な渓流が飛沫をあげ、淙淙の音を響かせている。山々には、もみの木らしい針葉樹の自然林が所々にあって谷間には馬や天山羚羊の放し飼いが見られる。羊腸とまがりくねっている山道を、車は道路幅一杯にすがりつくような形であえぎあえぎ登る。

 そうこうしているうちに、前方の山が急に開けて紺青の湖水が豁然として眼前に現われた。

 前方にひときわ高い雪峰がボクタ山であろうか。湖岸にはバンガローが幾棟もあって、人々の良い行楽の地ともなっている。真夏の太陽が頭上からさんさんとした光を投げかけ、湖の水面がキラキラと輝いてみえる。天池とはよく言ったものだ。何と美しい景色だろうと見とれている私の頭の中には、それ以上にこの地域の人々の美しい心が二重写しになって、本当に快いさわやかさを覚えさせるのであった。

 (付記)
 昭和五十五年八月、中国新彊ウイグル自治区を訪問した時の記録である。

 


卒業25周年記念アルバムより