7組 杉原 直門 |
思い出はたくさんある。しかし、それが老人の繰言に終ってしまってはいかんと思う。四十年たっても、まだ鮮明に思い出されるもの、思い出を語ることの効果の良否にかかわらず現在もまだ鮮明であるもの。そこに何等かの価値を見つけたいと思う。 適当に忘却を繰返しながち、ノイローゼにもならずに生きて来られたんだという思いの反面、忘却の荒波のなかに、なお生き残った記憶はそれだけに、ひとしお語るに足るものを持つものかも知れないし、思い出は単に過去のものでなく、必ず現在につながり、さらに来来につながっている、そんなことを思いながら書いている。 @ 何のめぐり合せか、昭和の年号と同じ期間を自分の学生生活の期間として、十七年間の学びの生活を昭和十七年三月に終る予定のところ、無理矢理に三ヶ月繰り上げて卒業させられたことは、まことに残念の極み。大東亜戦争突入の時期であり、あわただしさが、いたずらに気持をかり立てていたようだ。明けて一月に住友倉庫に出勤、わずか一ヶ月の勤めの後二月一日に広島の部隊に入営、初年兵としてしごかれることとなる。 悪いことに、当時、妻のおなかには臨月の胎児がおり、出産予定日は一月末日、入営の時に間に合うかどうか、子供の顔を見て入隊できるかどうか、いろいろ気をもまされたが、結局出産は二月にづれこみ、心を残したまま、寒空の下、神戸から広島へと旅立たざるを得なかった。大きなおなかをかかえ妻を一人で残して別れなければならない。出て行ってしまったら、あるいは帰って来られないかも知れない、そんな気持もあっただけに、いやです、いやですと泣きながら、ぽろぽろこぼす妻の涙は、おなかの子供の分も含まれていたのであろう。大粒の涙、涙、涙。 何も好きでいくのではない。それしか生きる方法がなかったのだ。もう二度とあんな気持は味わいたくないし、また子供や孫たちにも味わせたくない。戦争はまったく非人間的なものだ。 A 「きけわだつみのこえ」に東大経済学生の松岡欣平という人が書いていたが、「大東亜の建設、日本の隆昌を願って、それを信じて死んでゆくのだ。目的がとげられたら死者もまた瞑すべし。もしそれがならなかったら、どうなるのだ。死んでも死にきれないではないか」と。 あれから四十年、やがてまた戦争が近づきそうな現在の日本をみて、戦死した戦友たちは、どう思っているであろうか、はたして死にきれているであろうか。彼等の亡霊が死にきれずにさ迷ってはいないだろうか。 B 満州で敗戦、流浪の民として一年余、外地ですごし、国家のバックのないみじめさをいやというほど味わい、激変した境遇のなかで、たくさんの尊い経験をした。二人の子供のうち次男を外地で引揚げの直前に、薬がないために病死させ、親子三人で佐世保港に引揚げてきたのは昭和二十一年九月末。 長男は引揚げの旅の過労で船の病室に寝ており、夫婦は着のみ着のまま。水面に長く尾を引いて光ってゆれる夜の佐世保港の灯を見つめながら、自分にとっての戦争の意味を反趨して問いつづけた。戦争とは何だったのか。 戦争するために十七年間も学問を志したのか。この様はなんだ。もっと賢こく、強くなれ、もっとしっかりした哲学を。西田哲学はくその役にも立たなかつたではないか、そしてとぼしい財布をはたいて買った哲学書を、狂ったように読みふけった引揚後の時期、だんだんとはっきりして来る世界観をさらに追い続けたあの時期はなつかしい。そういう前向きの姿勢の時こそ、人間として本当に生きてるという実感が湧いてくるものだ、といまつくづく思うのだ。 C 平和と民主主義のために心を砕いて生きてきた。そのために差別的な待遇をうけながらも、その生き方は私の心のなかに湧く泉となって、心をうるほし続けている。 歴史は繰り返すというが、今また逆流が私たちの周囲を襲おうとしている。いろいろ議論はあるけれども、核の網が世界中に張りめぐらされ、自動的にコンピューターが作動しており、全く初歩的なミスによってさえも、全人類の滅亡もあり得る時代に、軍備という危険物を持つことは、持たないよりも、はるかに危険だということは断言できる。 プロパン瓦斯が充満しつつある部屋に、ライターを置くことは、点火する自由は留保するにしても、爆発の危険は比較にならないほど大きい。どんなことがあっても、自分の生存だけは守りたい。みんながそう考えている。人間としての不退転の要求である。自覚的存在としての人類は正に瀬戸際に立たされ自制すべき時に来ている。 D 書道の場合でも、初心にかえることは、常に大切であるが、人類よ、初心にかえれと叫びたいのは私だけであろうか。 子供たちや、かわいい孫たちのために、初心にかえって、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」(日本国憲法前文)、熟年らしく心を砕いて生きてゆきたい。 今年は、四月に色紙展、八月に第七回個展と忙しい年になるらしい。佳き友の集いである十二月クラブのメンバーのために、拙作"佳友"を捧げ、これから佳境に入る、それぞれの熟年期に幸多かれと祈り、さらに十二月クラブの活動の盛んならんことを祈ってやまない。 「編者注、乍残念佳友の写真は割愛させて頂く仕儀となったのをお詫びする」 |
卒業25周年記念アルバムより |