年よりの想い出ばなしといわれても、この機会にこれを書いておけば、何かのはずみに彼の消息がつかめるかもしれない。
彼の名前は Raul Cancio (キャンシオ)、キューバ国籍の海外留学生でした。
彼と最後に別れたのは昭和三十五年一月、ローマの空港です。それまでおよそ二ヶ月近く、専ら僕のガイド役をつとめてくれていたのですが、いよいよあと二、三日で僕がローマからさよならするという頃から、彼は僕にもう少しローマにいないかというようになった。そのいい方がかなりしんけんなのである。
出発前夜の夕食の時、彼はまた「もう一日だけでいい」から出発を延ばせないかという。その「もう一日だけ」という言葉が今も僕の心に強く残っている。彼と暮していることは楽しいけれど、これからのスケジュールも動かすことはむづかしい。これから飛んで行くイスラエルや印度の行先でも、そのつもりで日程をあけてくれている。それにもう僕の心は東にとんでいる。家族とはなれてもう二年に近い。
翌日、最後の軽食を二人ですませて、ではここで左様ならしようというと、彼は空港まで送ってゆくという。空港まで二人でゆけばリムジンの料金も二人前五$ぐらい、相当の費用である。勿際ないから止めてくれというけれど彼はきいてはくれない。
僕の脳裡に今も焼きついているのは、空港の屋上で一生懸命、手を横に振っている赤いシャツの彼の姿である。僕の飛行機は見えても僕が何処の窓に居るか彼には分りはしない。
僕はその時不覚にも涙を流した。僕は冷血だから涙は出さないと思ってきたのに。
それからのことは後に回そう。
さて、彼とはじめて会ったのは、ニューヨークから英国に渡る船の中である。アメリカから欧州へ渡る時に、豪華客船で行ってみたいというのが、前から僕の希望であったから、半年も前に船室の予約をしておいた。その時、一等と三等というか並等というか二通しかないのに、その並等の中に少々高い船室が一つだけあった。この船室は二人室で、バス・トイレ付きである。少々高いけれど千$以上の一等にはとても手が出ない。幸いこれが予約できた。この船室の相客がキヤンシオである。
日中はデッキで輪投げなどして相手かまわず遊んでいられるけれども、寛ろぐのは船室ですから、自然と彼と話をする時間が長い。彼はキューバからフランスに派遣される留学生で建築美術?が専攻の、当時三十二、三歳の背は余り高くないが太りぎみで丸顔の白人であった。アメリカの大学を出ているので英語は勿論だが、フランス語、イタリー語もお手のものであったことが後で分った。静かでおとなしい、そして、しゃべることに知性を感ずる男であった。船室の中ではお互に洗った下着等を浴室に干しておくのだが、かわいた僕の下着を取入れておいてくれたりした。
クイーンエリザベスは一週間のあいだ、一度も揺れを感じさせないで静かにサザンプトンに着いた。朝であった。サザンプトンからロンドンまで汽車で行く、ロンドンで彼も二、三日見物してゆくという。彼はロンドンの宿舎の予約がないという。そしてこのあたりから彼との因縁が始まってしまう。
僕の方はロンドンで当時一等書記官をしておられた黒田さんという方が、一つのゲスト・ハウスを予約して下さってある。軽食付きで一泊三$という安さである。この話をすると、彼は、僕もそこにお世話になれないだろうかという。兎に角行ってお願いしてみようということになった。ロンドンの駅前で僕が二人分の荷物の番をしているうちに彼は一台のタクシーを拾ってきた。ゲストハウスに着いておそるおそるもう一室ないかというと、幸にあった。そして、ここでまた一週間彼との生活がはじまった。二人の生活がいつも、ウマが合った理由は、二人とも金をできるだけ節約しなければならないということであった。僕も、当時制限されていた外貨はもう乏しいし、彼も一ヶ月百八十$の給費の予算では節約しなくてはもたないという。
ロンドンの朝夕は寒い。寒さに弱い僕は、宿の主人にたのんで、ガス暖房をつけ放しにしてもらった。その暖房はコインを入れれば二時間ガスが出るという式だから、夜中が始末が悪い。朝になると、彼はふるえながら、彼の部屋に運ばれた軽食をそのまま捧げて僕の部屋に来る。この部屋は暖くて有難いという。
食事が終ると、彼のスケジュールに従って二人束になって見物をする。一週間程して彼は先にパリに発った。僕もパリに行くこにになっているけれども、僕はまだ黒田さん宅にお世話になったり、ロンドンの碁打ちとの約束もあるので三日程おくれるのである。「パリの宿は、今度は僕が用意しておく」といって彼は先に発って行った。
それから三日程して、汽車で僕がパリに着いたとき、彼は汽車の側に立って僕を待っていた。夜の九時頃だったと思う。荷物が重いからタクシーをと僕が言えば、タクシーは高いからと、僕の重いトランクを彼は肩に乗せてさっさと歩き出した。着いた処はやはり一泊三$のペンションである。そしてまた彼との生活が一週間続くのである。
ロンドンでもパリでも、それからローマでもそうだったのだが、彼は名所古蹟の案内は俺に委しておけとばかり、すべて計画を立て、日程通り運んでゆく。夜は夜で少しは金がかかっても見るべき処は見ておかなくてはとオペラ座やリドの一等の席を予約してくる。この為にお金は節約してきたとばかり。
彼の案内は超一流であった。たとえばルーブル博物館で「今日は西欧の画家が日本画をどんな風に取り入れたかということをお前に見せておこう」と僕を、名前は忘れたけれど有名な画家の画の前につれて行った。そこに、花鳥があしらわれている静物画が二、三点あった。「この頃から、こうして日本画の影響が現れてきた」というのである。
彼は古蹟を案内する時は必ず部厚い洋書を提げて行く。そしてその本の中にある写真と同じ角度から廃墟を見ながら、その廃墟の歴史を説明するのである。
彼は一度も来たことのない日本の古い芸術・文化も知っていて、殊に書道に感心していた。或る日僕に何か書いてくれと大きな紙と、筆の代りに画筆を一本持ってきた。画筆は始末が悪かったけれど、僕は何かにつけて書く「蠖屈竜伸」という字を書いた。その意味の説明をしたら彼はよろこんで、僕のやった筆の運びを、幾度も手を動かしてまねていた。
僕の為に案内してくれるのだから、せめて二人の夕食だけは僕にもたせてくれというのだが彼はそれを絶対に承知しない。パリで最後の夜に日本の食堂につれて行った時、「ここは日本だからお前は払うことができないのだよ」といってやっと一度だけ承知させた。
パリに居る間に彼の留学地はローマに変更された。パリはインフレで毎月仕送られる百八十$では住んでいられないから、ローマに変更するようキューバ政府に願い出ておいたら許可が来たというのである。
それではまたローマで会えると、僕はある日彼に別れて西独に向った。
西独で碁でメシを食った話は、何かの碁の雑誌に書いたことがある。一ヶ月、碁でメシが喰えるとは思わなかった。西独では当時アアヘンの工科大学のレンツ博士がたててくれたスケジュールに従って碁行脚を行った。
或る日予定に従ってアムステルダムに居るシルプという高校の数学の先生のアパートにレンツ博士と二人で泊りがけで行った。シルプ先生は碁が好きで後にオランダの代表として日本棋院に招かれ東京に来られた。
さて翌日シルプ先生夫妻は僕達を案内して遊覧船の船つき場につれて行った。シルプ先生が切符の手配か何かしている間に、僕はこれから乗る船の方へ行って船室の中をのぞき込んで驚いた。キヤンシオが座っているのである。彼はオランダ観光としゃれこんで今朝着いたばかりだという。全くの偶然である。僕とキヤンシオが手をとりあってよろこぶ姿をレンツ氏とシルプ夫妻があきれてみていた。こんな偶然ってあるもんかしら。
さて、紙数に限りがあるので先を急がねばならない。
それから一ヶ月程して僕はローマに着いた。ローマの或る大学の教授の研究室が彼との連絡場所に決めてあった。そこから電話で連絡すると彼は早速すっとんできた。
ローマで別れてからもう二十何年、僕達はクリスマスカードや、何か人を紹介する時ぐらいしか音信はしない。彼は大変な筆不精である。彼は結局キューバから一人きりのお母さんを呼んで、あれからずっと独身で、ローマに住んでいたのである。短い彼の通信の中で、母がプロフェッサー・ツチダに会いたいといっていると書いてきたことがある。
いま一度、天国( kingdom of God )でなくてこの世( in this world )で会おうね、というのが僕達のあい言葉であった。しかし、去年のクリスマスから彼の音信はとぎれた。
去る四月はじめ、僕は家族をつれてモナコヘ行った。その前に当然彼に手紙を書いて、返事を待った。これが今一度彼に遇うチャンスだと思った。返事が来ない。いま一度書いた。しかし僕達が出発する一週間程前に漸く、僕の出した手紙が束になって返送されてきた。宛先人の住所にはもう居ないというのである。何ということだ。いままでの住所に居ないということであれば、急にローマに行って探すよすがはない。短い旅程の中で探す余裕はない。
天国ではなくて、もう一度この世で会うことができないだろうか。
誰かキヤンシオを知らないか。何かのはずみで、誰かの御助力で彼の行方がわからないかと、彼の最後のアドレスを書いてこの稿を止めます。
Mr. Raul Cancio via Delteatro Volle 51 Roma 00186 Italy
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