丁度九年前の昭和四十七年九月兵庫県多紀郡篠山町にある鋳物工場の経営を引き継ぐことになった。全く予想もしなかった丹波篠山との出合いであった。ここは言うまでもなく一組倉垣修君の故郷であり、いまは彼の代理人のつもりでいるのである。
篠山の名を人は仲々正しく呼んでくれない。極く近い阪神地区の人々ですらシノヤマと読み、「丹波ササヤマ」のことかと更めて認識してくれる次第。
「大ざさ」の笹に対して篠は「小ざさ」であるそうで、シノヤマと呼ばれてもまたやむを得ない。その篠山町の西北部に歩兵第七十聯隊の兵舎と練兵場が明治四十年に生れ、戦後兵庫県立農業大学の学舎となり、そしてその後に私の奉職する鋳物工場が兵舎跡に立地している。今でも聯隊本部、内務班の兵舎、将校集会所、あるいは酒保(階上下士官集会所)そして炊事場の建物を残し、そのまま現用している。老朽化した木造が主であり、今後いつまで残せるか問題は多いが、多くの若者が兵役に励んだ歴史的な建物であるので、できる限り一部でも残していきたいと考えている。
一口に丹波といっても広く、大部分は京都府に属し、兵庫県はその西南部分二郡を占めるに過ぎない。それにもかかわらず恰も丹波を代表するかのように「丹波篠山」の名が人口に膾灸される所以は、地元盆踊り歌のデカンショ節が炭坑節同様全国的に有名なためではなかろうか。
当地では八月十六日から三日間デカンショ祭りと称して町を挙げて祭り一色になり、特に十七、十八日両夜の総踊りは城跡内市民グランド(旧三の丸)に櫓を立てその周囲を十重二十重に取り巻いて、
丹波さゝやま山がのさるが
花のお江戸で芝居する
ヨイヨーイデッカンショ
と、歌い手さんに合わせ数千人の老若男女が終夜まで踊り廻わるさまは、普段勤勉を誇る農業中心社会の平和への祈りと生きる悦びを現わしているように思われる。各町内会、役所、企業等各種団体で「連」を作り、銘々揃いのゆかた白足袋姿は仲々粋なものである。
かくいう私も当日は「三井ミーハナイト連」の先頭に立つことにしている。徳島の阿波おどりほど観光化していないのが救いである。
ここ多紀郡は標高五百米前後の山々に囲まれた標高二百余米の高原性盆地であり、夏季煉獄の阪神地方では味わえない快適なところである。ここに徳川家康が慶長十四年諸国普請として篠山城を築城した(縄張りをした藤堂高虎は六か月間で完工、直ちに名古屋城築城にかかっている)。
城を基点に五十粁の円周上に京都、大阪、神戸、明石そして舞鶴が位置する中心点であるが、航空写真術のなかった当時いかにして戦略的判断を下したのか一驚に値する。近世篠山はここの城主松平三家八代青山家(家康直参の旗本大名で江戸家敷のあった処を青山という)六代を中心に、封建社会を営んでいる。一城主の一国支配は、天皇公郷の京都、豊臣の大阪、有力外様の各領と境を接しながら、強固な安定社会を築きあげているが、その反面体制維持にはかなり明暗を分けた人、制度の相克があったに違いない(尤も城下町は何処も同様かも知れない)。
会社でも地元出身従業員は実に良く働いてくれる。これは伝統的風土の中の住民根性の一端であろう。歩兵第七十聯隊が例の大阪第八聯隊と同じ第四師団管下でズパ抜けた精鋭部隊であった由、さもありなんと頷ける。
しかし他方では保守的でやや排他的心情の強い点はよそ者の私には見えない圧力となっている。同じ兵庫丹波でありながら、隣りの氷上郡の住民が進取の気風に富んでいるように感ぜられるのは、群雄割拠、多くの寺社領に分れて操まれてきた社会構造の違いによるのではあるまいか。
もと多紀盆地は沼沢地であった由。大昔先住の出雲民族が盆地の西端を切り開いて播州の方に排水干拓したとも伝えられる。恐らく古代文化の源流は出雲を経て半島そして大陸に及ぶのであろう。この辺のことは俄か代理人でなく本人の倉垣君に説いて貰わねばならない。
ただ工場の近くから縄文時代の土器が出ており、郡内各地からも五、六世紀頃の出土器がある。まだ、本格的な考古学的調査は行われていないようであるが、先人達の生活を知ることは、現代人の生き方を探るよすがとなるのではなかろうか。
篠山を語れば仲々尽きないが、どうしても落せないのが、古丹波焼の伝統を受け継ぐ立杭(たちくい)窯のことである。篠山町西南十五粁程の今田町立杭にある七十余軒の陶窯群である。日本六古窯のひとつとされる古丹波の伝統は今も谷間の穴窯(尤も近年は登窯中心)に生きており、この伝統的作陶方法に従いながら、しかもこれを超えようと懸命の努力を続ける若い陶工達の姿に、同じく火と砂を使う鋳物やとして共感を覚えるものがある。しかも商業主義の洗礼を受けた各地の作陶地と違い、まだ健康な陶工の里であることが非常に嬉しい。来篠してくだされば、本人に代ってご案内申しあげたい。
ちなみに、篠山の西北にある豊岡で七組の作花君が公認会計士として大活躍しており、一方南隣りの三田では四組の岩波、阿波両君の社長、副社長コンビでこれまた繁栄している日本ピラー工業(株)三田工場があり、鋳物素材の面でいろいろ愛顧を願っていることを記して、筆を擱く。
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