7組  壷井 宗一

 

 岡山県高梁(たかはし)市。それが私のふるさとである。
 山に囲まれ、川に沿った小さな閑寂な町で、町の人達はたいてい知り合いだった。幼稚園、小学校、中学時代を育くんでくれたこの町に、私は今でも限りない愛着を持ち続けている。

 備中松山藩五万石。徳川幕府最後の老中筆頭を勤めた板倉一族の城下町である。私が生れた商家通りは、格子戸のある立派な、大きな家が立ち並んでいて、町の中心地とは思えないほどおっとりとしていた。
 それが家中屋敷となると、門長屋のついたいかめしい構えの家が並んでいて、石榴の木や欅の木が屋敷を静かに囲んでいる。まるで無人の家のように森閑としていて、正に徳川時代そのものであり、封建時代の名残りが色濃く残っていた。

 中学校の後ろが城山で臥牛山(がぎゅうさん)といい、四二〇米の山の頂上には天守閣が聳えている。松山城と呼ばれ、鎌倉時代の築城以来ざっと七百四十年の歴史を秘め、群雄割拠の中で次第に山丘城の威容を整えた。私達はよく遊びに登った。今はすっかり修築されて国の重要文化財に指定されているが、子供の頃は三層の天守閣の真ん中が崩れ落ちて、屋根の上には直径二十糎ぐらいの松が生えていた。それは全く朽ち果てた古城だったが、この松山城の歴史が戦乱の歴史であったことを教えられていた私達は、崩れた姿の古城が何よりも自慢だった。

 今も残っている大きな格子造りの商家、武家屋敷の堂々とした威厳。戦乱に耐え抜いてきた古城。そして到るところ見られる封建時下の清潔さ。それらが現在住みついている東京の喧騒な環境。軽薄な人情と比べて、ふるさとへの愛着を永く、深くしている根源のように思われる。

 この町はまた教育環境にも恵まれていた。小さな町でありながら古い県立の中学校と女学校があった。高梁中学は今年で創立八十六周年を、順正高女は創立百周年を迎える。
 松山藩時代、山田方谷という立派な学者で、政治家が塾頭だった藩校の有終館(中学の前身)からは、川田甕江、三島中州という明治、大正の碩学が輩出した。越後長岡藩の傑物河井継之助が、山田方谷を師として仰ぎ、しばらく松山藩に逗留していたことは世に知られていることである。この町はこうした古い教育の伝統を持っていて、昔から文人墨客の多い町だった。

 また町には三つの古い神社があって、何れも深い森で静かに囲まれている。その一つの御前(おんざき)神社が私の家の氏神さまで、この神社の鐘の音が町全体にのんびり響きわたって時刻を知らせていた。少しぐらい時間が違っていても町の生活の時報だった。
 また小さい町ながら寺の多いところで、城主が代るたびに菩提寺を建てたから各宗派の寺がひしめいている。駅の裏手の山腹が寺町で、その中でも薬師院と松連寺は城砦のような石垣、折れ曲った石段の上に小城のように聳え立っていて、まことに壮観である。いざ戦争となると砦に早変りするのだと父に教えられていた。

 高梁にはその一方で、古い白塗りの木造のキリスト教会が残っている。その昔迫害された時の遣物が保存されていて、子供心に深い感銘を与えられた。私はこの教会の日曜学校に通っていたが、クリスマスの夜は町の子供達が多勢教会に集まってきて、二階から私達の聖歌や聖劇に声援を送った。
 高梁の町は山と川のすばらしい自然に恵まれていた。だから子供達は四季折り折りの遊び場にことかかない。春は町の南にある長い桜提や北にある川端町の夜桜を楽しんだ。夏は正に子供の天国で、夏休みになると毎日川で泳ぎまわり、鮒や小蟹などをとって遊んだ。
 山が四方どこでも目の先にあるので、蝉や蜻を追いまわして夕暮れになることもたびたびだった。柿の実が色づく頃は、屋根に登って柿をとり、母が醂して私に近所や知人に配らせてまわった。お宅の柿は高梁で一番おいしいよと言われて、私は母の腕前を自慢していた。その母ももういない。

 こうした四季折り折りの自然のいとなみに溶け込んだ生活。そこには自然と人との触れ合いがあったように思う。そして自然の生命の偉大さを知りながら私達は育っていった。
 現在私はスモッグに喘ぐ東京の一隅に住みついているが、妻がデパートから土を買ってきて花を植えるような生活では、自然の生命力は殆ど感じられない。ふるさとの山や川の閑静な自然の中で、小鳥の囀りを聞きながら明け暮れた遠い昔が懐しい。今の若者達は、たとえマイカーで山や川をおとずれても、すぐカセットをかけて喧騒な音を鳴らし出す。騒音と衝動的な都会生活を送ることを余儀なくされている若者達は、すでに静かな自然に対する拒絶反応を示すに至ったのであろうか。自然の生命を知らない若者達は、人間の生命さえ見失うようになってゆくのではないであろうか。

 先年小学校時代の友から便りがあった。盆踊りには是非帰って来い。今年の盆踊りは大変賑かにやるらしい。久しぶりに昔を思い出して一杯やって踊ろうではないかと。
 そしてさらに人口は二万九千人になって毎年減少しているが、うれしいことにクルマがあまり通らない。空気が澄んでいるので、星空は今も昔と変らず大変きれいだ。東京なんかで暮らしていると寿命が縮まるぞとつけ加えた。

 思えば中学時代を最後にこの町を離れてから幾年経ったであろうか。山口、一橋時代は夏休みには必ず帰って毎日泳ぎまわっていたが、国鉄に入って流れ者の旅を続けるようになってからは次第に足が遠のいていった。
 それでも大阪、米子在勤時代は時には一泊の帰郷の楽しみがあったが、今は殆どご無沙汰している。懐しい自然との語り合い、せめて単調な都会生活に変化を求めるために年一度ぐらいはふるさとの空気を吸いたいものだと、卒業四十年たった今、切に思うことである。

 もう大分前の話になるが、NHKがわがふるさとを全国放映して取り上げたので、歴史の中に静かに残されたこの町が、急にクローズアップされて、最近では観光客も増えているそうである。
 私は自然と人間とのつながりが大切であるという意味も含めて、わがふるさとのことを書かせてもらったが、むしろ私の旧友の言葉のように、わがふるさとは日本列島の中、多少の文化的生活ができて、安全で長生きができる町として、貴重な存在になったのかも知れない。

 


卒業25周年記念アルバムより