7組 野崎 富作 |
母親の胎内で生を受けたのが明治、娑婆の空気を吸ったのが壬子の大正。今年到々古稀を迎えた。 回想編 嬉しかった事、それは入学試験に合格した時である。まず大正十四年新潟県立三条商工学校金工科に一番で合格。当時この学校では入試の結果を成績順で発表した。その日、結果を見に行ったら自分の名前が真っ先に出ているので、びっくりした。 鍛冶屋の長男だから金工科を受けたのだが、乙種三年の学校からは上級学校に入れないので止めた方が良いと担任の先生が強く父に勧めた為、結局中学に入った。小学校では到々首席になれなかったのだから驚いた訳である。因みに首席だった友人は中学入試に落ち、この商工学校商業科に入学した。 次は昭和六年東京商科大学付属商業教員養成所に合格。この時が一番嬉しかった。定員三十五名に対し志願者は六〇六名。一橋では史上最高の激戦だった。その上、時は不況のドン底父が家業では食えないから好きなようにしろと云っていたのだから喜びも一入であった。 昭和十四年学部に入学を許可さる。十二月クラブの諸兄もご存じの通り、商業科中等教員二年以上の経験者を小論文と口頭試問による特別選考で入学を許可するという試みが始めて実施された年である。 養成所を出て秋田県立能代中学(現イラン大使高橋正太郎昭十八学はその時の教え子)に四年、当時は宮城県石巻商業に勤めていた。受験するには宮城県知事の許可を必要とした。それでも志願者は定員の約二倍、落ちたらオメオメ石巻商業に戻れない。背水の陣?だった。 学部二年九ヶ月の生活は、私の人生で最も充実感のあった時期である。五年間教員をやったので学資はまあ充分といってよい。自分で稼いだ金を更に勉強する為に使うのだから有意義な使い方ではあった。学部に入学して、教わる事の楽しさを始めて知った。それで多くの講義に出席し、サボル気には全然なれなかった。しかも商大の専門科目らしからぬ講義にも良く出た。 牧野英一先生の刑法と法律思想、一度国立から帰りの電車で先生から声をかけられて隣りに座った。先生のお話しは面白くて為になるという典型そのものだったので、以来何回となく同席させて頂いた。 神川彦松先生の外交史、独ソ戦が始まり、独逸軍が破竹の進撃を続けていた当初、先生はヒトラーがナポレオンの轍を踏むであろうことを示唆されていた。 西川正身先生の英文学、二年続いて聴いた。おかげでウオシントン・アーヴィングのスケッチ・ブック(養成所では内藤三介先生の時間にテキストとして使用)から始まって名だたる文豪の代表的作品を数多く知る機会を得て今も記憶に残っている。その上、先生に甘えてヘンリー・アダムスの自伝的告白書ゼ・エデュケーション・オブ・ヘンリー・アダムスを貸して頂き、夏休み期間にこれを完読してレポートを作成した。 外人教師の英会話は月刊誌カレント・オブ・ザ・ワールドを教材に使って色々コメントをするのだが山田音次郎君の流暢な英語が目立っていた。夭折されたのは惜しみても余りある。 一橋会懸賞論文には二年、三年と続いて応募、前者については岩田巌先生、後者は松本雅男先生の審査であった。二つとも何の取得もない代物だったが、お情けで入選させて下さったものと思う。 岩田先生に忘れられぬ憶い出がある。大連から引揚げ暫く新潟商業に勤めていた頃、新制高校の商業科教員に対する指導を先生にお願いしたことがある。阿佐ヶ谷?のお宅にお伺いしてご承諾を頂いた。講習会の当日、先生は「上野発の夜行列車」で早朝新潟駅に到着された。宿へ案内して部屋に入ると先生は「お茶を飲みたい」と言われた。早速女中に持って来て貰ったら先生は「このお茶ではなく、これだ」といって盃を傾ける仕草をされた。私は「失礼しました」と謝り、熱燗の酒を持って来させた。先生が酒を愛されることは聞いていたのに不覚の至り、旨まそうに一気に呑み乾される姿が今でも眼前に浮ぶ。ご承知の通り若死にされたが、残念の至りである。 ゼミナールは高瀬荘太郎先生であった。卒業も近い頃(その頃先生は学長)上海の東亜同文書院大学本間喜一副院長(院長近衛文麿)が経営、会計の教官を何人でも採用すると云っているので希望者は申出るようにと話された。私は親しくしていた友人と二人で行くことに決め先生に申出た。それから暫く経って、本間副院長は私一人だけ来るようにと言っておられると先生から伝えられた。私は初めの話しと違うから行きたくないと答えた。先生は私に再考を求められたが猶も自説を主張すると「こういう時は僕のいう事を聞いておくものだ」と言われた。 先生にしては珍らしく強い言葉である。それでも私は承諾せず最後には「一度嘘をつくような人は将来も又同じような事を繰返えす倶れがある」とさえ言ってしまった。先生はもうそれ以上勧められず、結局私が一緒に行こうと言っていた友人が上海に行った。彼が上海に行ってからも本間先生は「野崎はどうしているか」と何回も彼に尋ねられたという。 私は卒業後大阪府堺市立堺商業学校に赴任した。高瀬先生からは事実止「破門」されたものと独り合点していたが昭和十八年の早春、大連高等商業学校に行かないかとのお手紙を頂いた。 当時戦局は日増しに我に非なること歴然たるものがあった。植民地で敗戦を迎えたら、どんな事になるか私にも見当が付いていた。しかし先生のお勧めを飽くまでも拒否した自分に対し再び声をかけて下さったご厚情に応えて大連に行く決心をした。校長徳重伍介氏と面接したのは神戸経済大学坂本弥三郎教授の研究室であった。徳重校長は坂本教授と一橋で同期の由。面接後、暫くして校長から来て欲しいとの手紙を貰ったが採用資格は講師である。私と同期の相川周平君は前年同校に赴任していたが一年間講師をやって貰ったから同じ条件だというのである。 私は直ちに「講師なら断る」と打電した。校長が最初の条件を固執するなら、それもよかろう。高瀬先生への義理も果せるし自分も危い所へ行かなくて済むと考えていた。ところが折返し「教授に任用する」との電報が来たので私も覚悟を決めた。五月末結婚、それから旬日を出ずして「アカシヤの大連」へ赴任したのであった。 学部在学中の思い出として特記すべき出来事は卒業の年?の田中耕太郎先生宅訪問である。これは宮坂義一君の企画であったが総勢七人位だったかと思う。 どういう経緯で我々が先生宅に押しかけることになったのか。数年前宮坂君に尋ねて始めて知ったのだ。彼によれば田中先生の講演会が国立の学舎で開催された際、右翼系の学生が野次を飛ばした処、彼が「黙って聞け」と怒鳴りつけた。講演が終った後で先生は彼に礼を述べ、遊びに来いと云われたのだそうである。 田中先生宅訪問が今も強烈な印象として残っている理由を簡潔に述べると、先生及び夫人(松本蒸治氏の息女と聞く)が我々を対等の人間として遇された。先生こそ世界的視野に立つ真の学者であると感じた。 最も感銘したのは勇気のある人だなあと思ったことである。言論統制の酷しかったあの頃、よくもこんな事を我々に話される。壁に耳あり障子に目ある世の中、先生の身は大丈夫なのだろうかと心配される程、卒直に時局観を語られた。終電に漸く間に合う頃迄お邪魔してしまったが、帰途つくづく思った。一橋で先生に較べることの出来る教官は誰々だろうかと思い囲らしたが、勇気という点では大分差があるように思われた。 回想に紙数を使い過ぎてしまったので近況編は短かくなる。大連で(いや正確に言えば奉天郊外の東陵で陸軍二等兵として)敗戦を迎えた為、私が予想した通りの結果になった。しかし命だけは助かった。それだけでなく、ソ連企業のグラウニ・ブッハルテリヤ(財務部長兼常任監査役?)をやったのは今から考えれば大変な収穫だった。ともあれ近況編は昭和五十三年富山大学を停年退官してからとする。 |
卒業25周年記念アルバムより |