7組  野崎 義之

 

 この春、満ソ殉難者慰霊顕彰会から「満ソ殉難記」を完成発刊したので購読をすすめてきた。多分戦友会名簿によって連絡してきたものと思う。常々満州には関心があったので早速とりよせた。
 元関東軍高級副官泉大佐の執筆編集で長年月を費して纏めた尨大な記録である。かつて東満国境で軍隊生活を送った私は痛恨の感を以て通読した次第である。この機会に古いアルバムをとり出して、一橋同窓との交りを中心に満州の思い出を記してみたい。

 私は昭和十年代の後半五ヶ年間に三回に亘って満州とかかわりを持った。

 第一回目は学生時代の太平洋クラブの鮮満旅行である。学部二年生の夏、金子鷹之助教授が引率指導教官となり、学生二十名が参加、同学年では唐沢、茂木、羽島、野崎の四名が加わった。この旅は我が生涯の最初の長期海外旅行なので特に印象が深いものがある。

 昭和十五年七月初に東京駅を出発してから朝鮮に渡り、釜山、京城、興南、清津を経て満州に入った。牡丹江、弥栄村、佳木斯では建設の槌音が高らかに響き、新興の気が溢れていた。佳木斯からハルピン迄の松花江の船旅は漫々的な満州気分を満喫することが出来た。異国情緒のハルピンから南下して、政治の中心地新京、工業都市の奉天、撫順、鞍山、南の玄関大連を順次訪れ、工場見学、観光等、びっしりつまった日程であった。

 各地で一橋の先輩達が活躍されており、我々一行を心から歓迎されたのには感激であった。佳木斯の如水会歓迎会でご馳走になった支那料理は本場もので、途中の「ヨロシ」という魚のからあげまでで満腹となり、後半のご馳走はうらめしく眺めるだけであった。ハルピンのロシヤ料理でも、最初の野菜のたっぷり入ったスープで腹一杯になり、次々と出されるご馳走に目を白黒させたものである。

 満洲の夏は暑かった。中でも鞍山の製鋼所上半身裸で灼熱の鉄をふりまわしていたが現場の暑さは物凄いほどであった。しかし工場を出た途端の一陣の風はこれ又今までに経験した一番の涼感であった。

 撫順では丁度帰省していた同期の松井稔君に各所を案内して貰い、大変世話になった。

 第二回目の渡満は軍隊とのかかわりである。昭和十七年九月、経理部幹部候補生として新京経理学校(満州第八一五部隊)へ入校した。
 当時陸軍経理学校は小平にあったが、幹部の大量教育の為、収容能力が不足し、西日本と外地の部隊の経理部幹部候補生は新京で集会教育が行われた。学校は新京の中心児玉公園にあったが途中郊外の緑園に移転した。
 季節的にも九月から翌年二月迄なので、零下何十度の酷寒の体験もし、満州らしい生活を送った。古年兵に交っての初年兵時代と異なり、学校出の同階級の集りなので、厳しい規律の中にも楽しい半年であった。六百名近い同期生も戦後はばらばらになって消息も不明であったが十年程前、有志の世話役が各方面から情報を集めて名簿をつくり、現在は約七割の消息が判明し、時々全国大会を開催して旧交を温めている。今年も来る七月に全国大会開催の案内を受けている。
 名簿によると、一橋出身者が約二十名いる、同じ区隊では、十六年前期の内貴泰三、寺岡三郎、後期の佐藤久満及私の四人がいる。先日テレビの竹村健一世相清談にゲスト出演していた那須聖氏(外交評論家)も同区隊の候補生であった。世の中狭いもので、名簿により家の近所に当時の教官と軍医さんが住んでいることが判った。しかもその子供達が高校で同級生だったのには驚いた。正に奇縁というべきであろう。

 トコロテン式に卒業して経理部見習士官として、久留米の原隊に復帰した時は、もう酷寒の満州とは縁切れで、次は新天地の南方へと希望したが、ままならぬのが軍隊で、「掖河第十一部隊へ転属を命ず」の一片の辞令で再び渡満することになった。

 第三回目の満州とのつながりである。掖河とは始めて聞く地名で、普通の地図には見当らなかったが、人事係から牡丹江の郊外と教えられた。寒さの残っている十八年三月末赴任すると、すぐに「城子満第二六四三部隊に転属を命ず」の辞令により、東寧県の国境に近い野戦貨物廠に落ちついた。当時関東軍は百万の精鋭といわれ、ソ連と対峙して訓練に邁進していた。
 軍の作戦としては、北満は防禦、東満は攻撃で有事の際は東満から進攻する備えとなっていたので、補給廠も国境に近いところに位置していた。十九年に東寧出張所長を命ぜられ、お山の大将の生活を送った。東寧は東海林太郎の「国境のまち」そのままの感じのするところで毎日ソ連の兵舎の灯を眺めながら過した。同じ部隊に一橋同窓の三好一三氏(昭二)、狩森正雄氏(昭十五)の二人がいた。三好さんはソ連参戦時、老黒山出張所長として交戦し、可惜戦死された。

 東寧の中央銀行にいた上野新氏(昭十五専)が世話役になって東寧如水会を開催したことがある。昭和十八年の春のころであった。
 この時ばかりは階級章は通用せず、学生時代に帰っての楽しい一時を過した。十五名集まったが、同期では芦田、戸辺、折下、小林、野崎の五名を数えた。その時撮った記念写真が縁をとりもち、戦後如水会館で東寧如水会を再現した。東寧の時と同じ配列に並んで、記念写真をとったが戦死者がいたので歯が抜けたのは残念至極であった。同期の小林頼男君もその一人である。

 昭和十九年から二十年にかけて満州の部隊は次々と支那、南方、内地へと移駐し、後をうめる為現地召集を受けた者が多かった。撫順の松井稔君も召集を受けて東満国境の部隊に入隊した。十二月クラブの名簿には彼の名前が消息不明者の欄に末だに残っている。当時を思い出して痛ましくてならない。

 昭和二十年に入って、本土防衛が叫ばれるようになり、四月末、私は北部軍に転属になり、札幌に赴任した。満州を離れて三ヶ月後にソ連が参戦し、我々のいた国境は戦場と化した。「満ソ殉難記」には激烈を極めた東寧方面の戦闘の模様が詳細に記されている。

 最近中国への旅行も解禁になり、満州(中国東北部)旅行も盛んなようであるが、東寧の様な辺境へは未だ自由には行けないようである。かつての国境の街を再び訪れる日が早く来てほしいものである。

 




卒業25周年記念アルバムより