7組  野村 好夫

 

 舞台は豊橋陸軍予備士官学校である。早いものであの時からもう四十年の歳月が流れた。
 我々は昭和十六年十二月繰り上げ卒業翌十七年二月一日現役入隊そしてその年の五月には幹部候補生として予備士官学校で訓練を受けていた。毎日の訓練は厳しいものではあったが古参兵は居ないし、同じような境遇の学徒兵であったから気分的には楽であった。その頃の出来事として私にとって次のような体験が思い出される。

 毎日夕食後反省記録帖を書かされていた。これは優秀な将校になるためには常に厳しい反省の繰り返えしの中で立派な軍人精神を養成してゆく必要があると云うねらいからであった。

 予備士官学校の編成は中隊、区隊、班となっており、区隊長は陸軍士官学校出身のバリバリの陸軍大尉で一区隊には補佐官として我々より一、二期上の見習士官が一人、他に下士官二名が居た。一区隊の幹部候補生は五十人であった。

 或る時、区隊長付見習士官から呼び出しがあった。何だろうと思って見習士官室へ行ったら区隊長付の見習士官が自分の机から離れて部屋の入口に近い所に立っていた。
 私が入って行くと、にらみつけるようにして私の反省記録帳を突き出して「これはいかん黒く塗りつぶして書き直して来い」と言われた。その内容は後で述べる事にするが、私は見習士官の深刻な顔を見てハッと事態の重大さを感じた。
 後で、見習士官に言われた通りその日に書いた処を黒く塗りつぶし別の事を書いて持って行ったら見習士官は小声で「この事は区隊長殿には内密にしておくからな。君、軍隊では批判は許されない。よく気を付けろ」。彼も我々と同じく職業軍人ではないから我々のおちいり易い職業軍人と社会人との間に溝のある事を教えてくれたにちがいない。

 私の書いた内容と云うのは、私が予備士官学校へ入学して感じた一つの疑問を書いたに過ぎない。それは指導教官の教えてくれる訓練の内容、いろいろの軍隊用語、作戦指導等どれをとっても皆、ソ聯との戦争を想定して出来ているように思えた。
 昭和十六年十二月八日アメリカ、イギリス等の聯合軍を相手に戦争が始まってそれがため我々は今までの学校制度に例のない繰り上げ卒業となり、こうして戦時訓練を受けるため予備士官学校へ来た筈である。相手はアメリカやイギリスであってソ聯ではない。
 私にとって今までの教官の言っている言葉が一々気にさわって来る。敵のトーチカに近づくには匍匐前進しかない。破甲爆雷で敵の戦車に体当り。満洲は空気が乾燥しているから距離の目測を誤ってはいかん。ソ聯の陣地は奥へ向って深い左右に重機関銃陣地がある。等々拾い上げればきりがない。教官の意に添わないと指揮力の鞘で処かまわずなぐられる。

 戦争が始まって半年位経っていたから多少南方戦線の話が新聞にのるがジャングル戦闘の話はあっても満洲式、ソ聯式戦闘は何所にもない。何でこんなに喰い違っているのだろうか。我々はアメリカと戦争するために繰り上げ卒業までして来ているのに、ソ聯との戦闘訓練を何で受けなければならないか。これは一体どうなっているのだろうと云う事が私の心の片隅に一つの疑問として何時もあった。

 反省記録帖にはこの事の片鱗を一寸書いただけで今から考えても全く他意のない卒直な問題提起のようなものであったと記憶している。

 その後私は予備士官学校を人並に卒業出来て、やがてビルマ戦線に参加し戦傷を負って内地へ帰って来た。我々の師団(善通寺)のビルマ作戦は昭和十九年二月からでベンガル湾沿いにインドヘ侵攻すると云う作戦で後に起こって来るインパール作戦のけん制作戦であったように思う。この南方の戦闘の経験では対ソ聯式訓練は見当違いだと云う感じはぬぐい去る事は出来なかった。

 終戦後会社で我々より予備士官学校が二年位後輩の人に聞いた話では昭和十八年六月頃「ア号作戦教範」と云う薄い本で対米戦闘教範が出たという事だ。この頃はもうガダルカナルからの撤退が噂に登っていた頃である。

 私はこの教範を見た事はないけれど、彼の話では適当な教官が居ないので訓練も全くの付焼刃であったと言っていた。

 豊橋でいだいた疑問を何時かゆっくり調べてみたいと考えていたが日常の仕事に追われてもう単なる過去の出来事として忘れ去っていた。

 最近共産党の伊藤律氏が生きて中国から帰って来ると言う事件があってそれに関するいろいろの解説が新聞や週刊紙を賑わした。私はその中のゾルゲ事件の解説で時期的な関連説明或はその当時のソ聯の動きから四十年前の予備士官学校でいだいた疑問が多少解けて来たような気がした。
 これは私の一人よがりの解釈で本当の処は専門家の説明を聞きたい処だが私なりにまとめて見た。

 日本陸軍は日支事変(昭和十二月七日七日)仏印進駐(昭和十五年六月末)と大きな問題を抱えていたがどうも昔から対ソ作戦の可能性を常に考えていたようだ。特に昭和十六年六月二十二日の独軍のソ聯侵攻で好機至れりと云う事で関特演(関東軍特別大演習)に名を借りた大動員計画を作り昭和十六年七月一日頃から実施に移していた。
 これは国力の1/3を使うと云う大動員計画で実際はその一部の実施に止まったが対ソ作戦を想定した関東軍の充実は大変なものであった。これが十六年七月二日の御前会議で「独ソ戦への不介入方針の決定」と共に大きく方向転換せざるを得なかった。この方針の内容が近衛文磨のブレーンでありその側近との付き合いも深かった尾崎秀美→ソ聯スパイ、ゾルゲ→助手の無線技師ブーゲリッチと伝わって東京湾上の釣舟から「日本の北進なし」と言う無線がモスクワに送られると云う話になる。
 やがてシベリヤに展開しているソ聯陸軍の大部隊が大挙して欧州戦線に移動すると言う事件につながってゆく訳である。

 昭和十七年五月頃対米英戦闘はいよいよ本番に入っているのになぜ陸軍の教育はソ聯要塞の攻撃にこだわっていたか。昭和十六年七月対ソ侵攻作戦はあきらめたと言ってもなかなか体質が変る訳でもなさそうで昭和十八年7に入って関東軍の大部隊がフィリッピンや南洋の諸島に転進して来たがおそらくそこでも匍匐前進や破甲爆雷の体当り訓練に明け暮れていたのではないかと思われる。

 四十年前に我々は生命を投げ出して戦ったがその歴史の歯車が変な音を立てていたのにそれには誰も気付かなかった。

 最近日本人はこぞって海外へ出かけるようになった。もし「ジャルパック」が戦前から今日のように盛んなら、おそらく日米戦争は起こらなかったのではないかと言う名言を吐いた人がいた。

 戦前もし日本陸軍が本当に対米戦略を研究していたらとても戦える相手ではないと。ここからも矢張り日米戦争は起こらなかったのではないか、なぜ、と言う別の疑問が生れて来る。

 




卒業25周年記念アルバムより