7組  羽太 弘一

 

 外部の高商組から学部へ編入した我々にとって、入学時の一つの悩みは入学と同時にどのゼミナールヘ入るかと言う事であった。

 予科、専門部出身者と違い先生方に対する知識もなく、ましてゼミの選択如何が卒業後の就職にまで影響すると聞いていたのではどうしたらよいのか迷ったのが事実である。

 就職を前提として又研究を主態として又場合によっては内容が楽で「優」を呉れるとか色々の憶測の中で、試験を受けて定めたものもあれば安易に競争率の低いところへ簡単に籍を置くことに定めたものもあった。

 私も色々考えた揚句競争のはげしい試験を受けるのは絶対に避けたかったが、ただゼミナール三年の間は大学生活の主態をなす為何処でも籍さえ置いておけばよいという考え方までは至らなかった。

 当時中山伊知郎ゼミは学生の人気を得ていたのでその対抗を考えて杉本栄一ゼミで面倒を見て頂く事になった。末だ定員内で無条件で歓迎されたが、杉本先生をよく知らずして門をたたいた事はよい事でもあり又苦しい事でもあった。
 杉本ゼミは我々が一期生で翠川、早川、末永君等々理論派と共に三年間のゼミ生活は怠け者の私には苦しかった。然しその中で忘れぬ事の出来ないのは学生に対する先生の愛情と熱烈なる指導であった。ゼミナリステン誰一人としてこの言葉に異議を唱えるものはなかったろう。

 毎週確か水曜日であったかゼミの日は必ず午後一時から中野に先生のご自宅に集まりレポートが行われた。食事をはさんで夜の九時頃までブッ通しで我々の指導に当った。その激しい熱意とその間における奥様のやさしい心使いは唯敬服に値するのみであった。

 或る日私は風邪気味だと言って病気の中には入らない程強いて言えば一日サボりたい気持で欠席届を先生宅へ連絡し心よくお許しがあった。
 然し少々面喰った。大した病気でもないので家でゴロゴロしたいところ奥様がわざわざ私の家へお見舞にお出で頂いたのである。全く此時ばかりは恐縮し恥入って終った。心の奥から弟子を愛し誠心誠意我々の面倒を見て頂いた杉本ご夫妻である。

 ご夫妻の仲睦じい家庭にあって確かお子様が一人もおられなかった。その寂しさの中で恐らくお子様に代って教え子特に初めて愛弟子を持ったお心持はやさしさと愛情にあふれていたのであろう。
 こんな意味で人間杉本教授は少くとも我々ゼミナリステンの心の鏡であって、それだけにその先生は若くしてご他界された事を聞き唯止めなく涙があふれた。
 単なる恩師ではなかった。それは敬父であり正に身近かにあった最も尊敬する人物であった。今奥様はさびしくお暮しのようである。出来る限り残った愛弟子が先生に代って先生への恩返しをし奥様へ出来るだけのことをしなければなるまい。

 


卒業25周年記念アルバムより