7組  藤井 湧吉

 

 昭和十九年晩秋、私は自転車一台を手にして、ベトナム西貢市から北に旅立った。交趾支那平原の雨期が終り、黄金色の日が斜に射す夕暮の事である。
行く雲追いて 雨は去り
森の都に 秋来り
薄もやこめる 夕まぐれ
橋畔立ちて 眺れば
南の方は 稲の海
北に連る 森の波
こゝ瞭南の 大原野
果しもあらず 地平線

 この歌は、ここから始まり行程三千キロの私のベトナム一周旅行を綴るのであるが、それはとに角、西貢を出る時は自転車は古いバスの屋根に積み、ビエン・ホアを経てその夜はロク・ニンのゴムの村で一夜をすごした。


 翌日は、峠を越えてカンボジアに入り、クラチニの町で大河メコンに出会う。薄墨を流したような川面を、長い煙を吐きながら、ゆっくりと航行して行った一隻の汽船の姿が、今も目に残っている。クラチエから、しばらく北上するとストントレンの部落に入る。ここにはメコン支流を横切る為の渡しがあり、漆黒の闇の中で夜半ここを渡り、黎明に至りて、ラオス国境に入る。

愛遼(アイラオ=ラオス)の国 夢の国
牧歌は流る 丘の上
巷に集う ラオ人(びと)の
サロンやシンの色哀れ
タベは窓に 灯をとぼし
父母子等も 集いたり
メコンに宿す 月清く
遊子は独り 空仰ぐ

 晩秋のラオスは、日本の秋のように涼しく、森の中には、木犀に似た甘い香りが漂う。
 この暁、バスのボールベアリソグが割れた為、それから先百数十キロ、私は自転車でラオス道を走った。道の両側は千古斧鉞を入れない、数十メートルの大木の密林がつづき、その中には象や虎が数多く棲み、時には道を横切った大蛇のあとが、キタラピラーの足跡のようについていた。私は自転車のベルをならしつづけ、大声で歌いながら、猛獣をよけてこの道を走破し、出発後一週間にして、中央ラオスのパクセの町に着いたのである。

 白雲が流れるボロバンヌの高原から、メコンの河の彼方に無限に遠く青い平原はタイ国である。パクセの町で親切な華僑のトラックに拾われて、ある夕暮ひぐらしの声に送られ、更に北に向い、朝霧の中にサバナケットに着く。
 朝市を通ると、ここではもうベトナム人の売子は北の言葉を使っている。ベトナム語は、南ではVの発音をJになまるが、北でははっきりとVと発音し、そのひびきが南に住む私にとって、耳新らしく感じたのである。

虎の寝姿 かくあるか
タケクの山は 屏風岩
亜細亜の奥より 吹き送る
風にさざめく ラオの竹
流浪の雲よ 声あらば
山の果なる民々の
あわれも深き 朝夕の
便りをわれに 送れかし

 タケクの町は、ラオスの奥、雲南ビルマの国境も近く、この山奥には色々な小数民族が部落を営んでいる。
 一日、山奥の部落を尋ねた帰途、自転車がパンクをしたので帰れなくなり、ついに泊る事となった。村人に大歓迎を受け、壷の中の濁酒の中へ、葺の茎で出来た管を、七、八人一緒に突っ込み、之を呑みほす儀式に加わったり、又村の娘が指先の上に蝋燭をのせて、民族の踊りを見せてくれた。

 当時、ベトナムは仏領印度支那と呼ばれ、日本の占領下にあった。フランス人達は、日本人の多い西貢を嫌い、八百キロも離れたこのタケクのホテルに逃避していた。
 ある夜私が食事中に、突然若いフランス人の娘が私の所へつめよって、日本の戦争行為を責め、あげくの果ては日本は必ず負けると大声で宣言した。私も一橋自由主義に育っただけに、その言葉に特に抵抗はなかったが、大勢のフランス人の前で日本の敗戦を認めるわけには行かず、「ヴ・ヴエレ」と答えた。
 それは、いずれ勝つともとれ、又あなたの云う通りになるとの意味を含めたつもりであった。すると「ヴ・ヴエレ」とは何だとまたからまれ、見兼ねた父親らしき人が仲に立って、その場をおさめてくれた。

メコンの川と ラオ人(びと)と
別れの日なり 今日は又
行手の山は安南の
道は遙けく雲の方
行げども尽きぬ 林道(はやしみち)
ラオスの空は 晴れたれど
チェポンの峡(かい)を 過ぎる頃
空は妖しく 曇りたり

 タケクの町をあとに、道を東にとり、秘境安南山脈を越えて、南支那海をめざす。山中の一夜をコーヒーのプランタシオンで過ごしたが、その宿の主は、フランス人の妻となった日本の老婆であった。

 羊腸の険を上りつ下りつ、雨中の安南山脈を進んでゆくと、長い牛の列を追って行くモイ族に幾度か出会った。たどりつく所、そこはドン・ハの部落で、ここでラオス道は西貢ハノイを結ぶ国道一号線につき当る。
 このあたりは、その後南北越南時代に幾度も激戦が繰返されたのである。人気のない国道に青い落葉が、冷たい雨の中に散る中を、自転車を駆って、当時無言の帝バオダイのいる安南の旧都ユエをたずねた。

 ドン・ハの駅でやっと汽車に乗れたが、ハノイまでの線路は既に米軍の制空下にあり、多くの橋が破壊されていたので、途中何度か自転車に乗り替えつつ、やがてハノイに着く。
 ハノイの冬は、その背後の雲南の山から、這い出す亜細亜大陸の高気圧の傘に入り、日本の三月を思わせる。

荒涼の野に 風むせび
寒さはいよゝ きびしくて
白壁くずる 賎が屋に
貧しき民は 住みいたり
衣はやぶれ 髪乱れ
素足に野辺を 歩み行く
行手彼方に そびえ立つ
教会堂の 鐘の音
千冬(ちふゆ)の昔 物語る
老爺の冠(かぶり) 物さびて
裸木林 すぎ行けば
廟堂の庭 落葉敷く
日暮(ぐれ)し窓に かきならす
絃の音いとど あやにして
灯影の奥の 人影を
金(きむ)か尭(ぎょう)かと かい間見ぬ
           (金雲尭-有名な越南の大河恋愛物語りである)

 私は最近ハノイを訪れたが、その町のたたずまいは、三十七年前と変らず、一年ごとに姿を変へ行く、ソウルやシンガポールに比べて、越南の人が受けた戦争の損失が、如何に大きなものであるかを感じずには居られなかった。

 ハノイをあとに、中部安南沿いに南下する頃には、既に日本はレイテの戦いに敗れ、一衣帯水の向う側には、米軍が怒濤のように押し寄せていたが、私は薪をたいたSLにひかれ出発以来四十有日を経て無事西貢にもどったのであるが、今はこの街はホ・チー、ミン市に変ってしまった。

今はおり立つ 西貢の
駅のほとりの 大広場
市場の上の 時計台
つくや正午の 鐘の音
旅路に見たる 数々の
面影胸に浮べども
この国広し こゝもまた
越南の民 集いたり

 


卒業25周年記念アルバムより