7組  本田 祐治

 

 昭和十四年三月、夜行列車の三等寝台から寝不足の頭をかかえて降り立った東京駅のプラットホームには、高商時代の一年先輩のKさんが商大受験のためにはるばる上京して来た頼りない吾々後輩を心配そうな顔をして出迎えに来て呉れていた。

 東京駅で中央線の電車に乗り替え、いつ着くかと待ちに待った国立の駅までの遠かったことを今でも昨日のことの様に思い出す。

 三月上旬の国立は北風が吹き道路の片隅には残雪が残っていた。
 運よく入学出来、入学の一つの目的であった徴兵猶予も達成されるとこれから三年間のんびり過せる安心感で、糸の切れた凧みたいになって仕舞ってその日その日を出たとこ勝負で過す遊学となってしまった。

 学園には偉い先生方がこれ迄とは次元の異ったトーンで難解な講議が展開され、同期の面々が既に数年間に亘って形成さして来た交友関係の壁は一見容易に後発組の突入を許して呉れそうにも窺えなかった。

 そのような一種の隔絶感を少しでも療して呉れたのは今にして思えば末知の世界であった東京と武蔵野の自然であった。
 東京の市街は古き良き時代を一ぱい残していたし、中央線沿線を中心としてくり拡げられる武蔵野の自然の風物は、何処となく私の故郷に似てとても親みやすい何かを持っていた。

 下宿の近くにあった井頭公園には毎日の様に散歩した。ここは土、日曜を除いては殆んど人影もまばらで自分の庭見たいな感じであった。少し足を伸ばせば善福寺の池は、澄んだ池面に悠々と武蔵野の大空をよぎる白雲を映して待っていた。
 未だ舗装されずに雑草の生い茂るにまかせられた水道道路も良く歩き廻った。若さと暇と健脚にまかせ学業は二の次と歩き廻り激動する世の中に背をむけて、迫り来る周辺の煩らしさから逃避し自分なりの平穏を守っていた三年間であった。

 この様な閉鎖的な生活の中で開放的な学生生活の一端に触れるように手をさし伸ばしてくれたのはゼミの面々であった。特に中村達夫君はボート部の多忙な時間をさいてゼミナリステンの融和の為いろいろな企画を樹て小旅行を計画し会計学の追求は別としても県命の努力をして頂いた。

 三年位たてば片づくだろうと甘く考えていた支那事変は、こと志と違って大東亜戦争と発展し卒業は三ヶ月繰上げ、いや応なしに時代の荒波の中に巻き込まれるハメとなってしまった。

 昭和十六年の暮太田先生のお宅での卒業送別会を終って帰路についた省線の大塚駅のプラットホームは、厳重な燈火管制下でまっ暗やみであった。
 音もなく電車がホームに入って来て三々五々と別れて乗った電車は、何時再会出来るかも判らない吾々を乗せて再びまっ暗やみの中に吸いこまれていった。あたかも吾々の将来を暗示するかの様に。

 あれから既に四十年の歳月がたってしま.った。入営、出征、外地での終戦、帰還、腰掛けのつもりで入社した銀行で停年を迎え、現在電気工事屋で第二の人生を送っておりますが、紙一重の差で命を永らえ現在に到ったのは完く運が良かったの一事につき感謝致している次第。

 残された日々をせめて志半ばで散った友人の分をもと思っては見ても、いたづらに時は過ぎて行き、夕暮れは迫り道遠しのこの頃です。

 


卒業25周年記念アルバムより