7組  水田 正二

 

 若ければ得意な手柄話になるのだけれども、齢をとってからは失敗談の方が懐しくなってくるので、その中の一つ二つ。

 学窓を皆んなと一緒に出て、おきまりの軍隊に入り、戦地に向ったが、昭十八年。軍隊は船舶通信隊と云って陸軍でつくった海軍部隊である。
 向うところは南太平洋の要衝ラバウルである。宇品港を出航して、パラオ島に寄港しただけで、前後一ヶ月ほど広い海と紺碧の空の中にゆっくりとした速度で、船団がゆくだけであるから、退屈この上ないことおびただしい毎日である。
 敵の攻撃もなかったので平和な時間をもて余して、将校集会室で一日中、碁を打っていても誰も文句がない。よき敵ござんなれとばかりに毎日毎日石垣作りをしていた集会室の将校当番が、いつもお茶をくんでくれては、立った侭で観戦してくれるのである。宇品を出帆してから、それが毎日である。観戦も毎日であるからして相当碁が好きなのに違いないと見当をつけたのである。この見当は当っていた。

「お前は、碁が好きだな。」
「ハイッ好きであります。」
 という様ないきさつで、当番兵を相手に皆んなで打ち出したのは、全くの失敗だったのである。その最たる者が私であった。

 学生集会所では初段ぐらいと自負していたので、当番兵に井目(セイモク)を置かして打ったのが第一目である。美事に全滅。それから一番毎に一目宛減らしていっても、白軍全滅である。遂に白(城)明渡しとなり、矢張り全滅。いたし方なく、一目宛黒置石を増やしても武運つたなきこと許り。ラバウルを目前にして、遂々井目となったのである。ラバウル入港前夜、彼が話してくれたのは、
「自分は、棋院の院生Xであります。」

 彼は現在の某九段だったのである。

 戦後は、東京に引き揚げて銀行勤めをした。終戦直後の世田谷池尻といえば玉電が走っていて、電車を待ちきれなくなると渋谷駅迄歩いて国電に乗るぐらいノンビリしたものであった。
 その頃、知り合いの中に、将棋好きがいて、私に某棋士との対戦を計ったのがいた。物資不足の時代ではあったが、盤と駒さえあればいいのであるから某月某日、知人の宅で対戦と相成り、午後の一時開戦となった。
 手合いは、某棋士の飛車、角落しである。専門棋士相手とはいえ、こちらは三段格のつもりであるから、何のことやあると気負いこんだものである。冬だったから、鼻から真白な吐息を吹き出していたかも知れない。

 午後三時頃、上手の王は裸同然となり五玉という位置、下手の私の玉は九玉で金将銀将三枚に守られている。但し下手玉は金銀が上ずっているのでちょっと脇が寒い位であるが、上手王よりは健全に見えるのである。
 上手番である。上手王を裸にした犠牲で、上手の駒台には、相当に持ち駒がある。手番が下手であれば上手玉は即詰であるが、残念ながら上手番である。勝利目前にして下手がそわそわして落着かなかったことは、それから数時間を出ずして儚い夢だったことを知らされるのである。

 某先生は、じっと考え込まれた。腕を組み、駒台に目をやり、一〇分、二〇分、三〇分、遂に一時間、下手にとっては、次に何が起るかと不安と期待の時が経つのである。そして二時間過ぎ、夕刻の五時過ぎである。下手の玉に飛車で王手をされた。
 サー困った。歩で合駒が出来るし、一手逃げることも出来る。合駒か?逃げか?大先生の二時間に及ぶ長考の結果であるから、余程読まないといけない。慎重に、落着いて、落着いて。と自分に云いきかせて、金持喧嘩せずの譬で、逃げたのである。あとは追われて、夜の七時過ぎ投了となったのである。あとで先生
 「玄人は素人に敗けられません」と。
 先生とは、昨年逝去された金易二郎名誉九段である。

 




卒業25周年記念アルバムより