7組  宮坂 義一

 

 私はなぜ(川柳)を始めたか

 わが国のビジネス社会にはエリートが雲集し、営業に、生産に、開発に毎日鎬を削っている。このきびしい競争社会こそ、男子が生涯をかけるところで、喜怒哀楽の渦が湧きたっている。
 ある者は希望に燃え、ある者は失意の底に嘆く。つねにストレスが生まれてくるが、赤堤灯をくぐり酒に酔っても解決するものではない。下手な妥協をしても傷痕はのこる。

 私もかつて営業課長の時代にきびしい責任をとらされ、一階級降格されたことがある。糖尿病や腎臓病まで、いろいろな病気がふきだし、医療も食事療法もきかなかった。
 困りはてていたとき、仏縁というか、妙心寺貫長故古川大航老師の知遇をうけることができた。私は禅に興味をもち、毎夜お前は何故悩むのか、何が原因で病気になるかを、自問自答してみた。

 半年ぐらいたつたとき、某大企業の会長、社長が粉飾決算で逮捕される事件が報道された。お前はこのような肩書にあこがれているのか、神仏ならいざ知らず人間の作った制度に悩み病気になるのかということになった。突然病気が回復し、それ以来元気になった。人間の精神はきわめて微妙で弱い。しかし一度分別がつけば強くなる。

 私の提唱するビジネス川柳は、こうした体験から始めたものである。ストレスの原因を徹底的に究明してゆくうちに、ビジネス社会の矛盾憧着が明らかとなり、はげしい怒りは次第に鎮静化してくる。そこで諷刺によって笑いとばしてしまうのである。私の川柳は斗南房と号して発表しているが、その若干を紹介しよう。

 タテマエで蟷螂の斧振うべし

 ビジネス社会では、昇進、昇給、栄転、左遷など身近かなことで一喜一憂するものである。誰でも自分はエライ人種だと心得えているから人の昇進が最も気になる。若いうちはそれほど差がないのに、中高年代にもなればかなりの差となる。
 とくに真面目で一所懸命会社に貢献したという自信家ほどショックをうける。天才肌の仕事は組織の壁にぶつかってたたかれる。このときタテマエだけで突り走るととんでもないことになる。自分自身を客観化してよく観察することである。

 組織社会のなかでは、はかない抵抗をするだけ野暮だと気がつくときストレスは解消する。私がそう自戒したときにできた作品である。

 喜劇俳優になりきってから昇進

 ビジネス社会は、たとえてみれば人生劇場である。とすれば、悲劇俳優になってはいけない。
 のこるのは喜劇俳優で、それになりきれるかどうかである。
 昇進、昇給、栄転、左遷などもろもろの人事は、神や仏がお決めになるのではなく、平凡な人間が決定するのである。権力闘争の熾烈な企業では、下手をすると悪の論理が優先するものであろう。まさに喜劇である。
 あいつは喜劇俳優だから昇進したのだ、おれにはそれほどの気持も努力もできないと笑いとばして、友人の昇進を祝福する気持になれば天下泰平である。私のそんな気持がこの句となった。

 喜劇一座からおりたつつまらない貌

 よく権力者だったトップが引退し肩書がなくなったとき、何とつまらない人だったかと見られることが多い。喜劇は大衆から銭をとるから、それこそ芸がすぐれている。組織社会の喜劇役者は肩書だけで自分に実力があるように錯覚する。
 定年や転職などこれからのビジネスマンには、どこへ行っても通ずる実力をそなえていないとミジメになる。何が実力かはそれぞれ御自身でお決めになり、十分たくわえることである。そう考えたときにこの句が生れたのである。

 雪原に走るものありすぐ撃たる

 日本の企業社会は年功序列、終身雇傭、集団主義の三つが底流となって運営されていると学者先生が説いている。日本社会が根本的に革命化しない限りその通りであろう。そのため人事政策の基本は、平均的な人材の育成であって、トップの説く和の精神とは、平均的な人材の集団を意味している。
 私はつねづね和というのは最大公約数の人材を中心とした経営だと規定している。このため最大公約数の上限からそれを逸脱する人材がいつも悲劇の対象となるし、ストレスを感じるのだと思う。

 俺は会社のためにはカヤの外におかれてしまうという嘆きをきくのはそれである。
 雪原は白一色の和の社会を意味している。
 何か白色でない目立つ動物が動き出すと、すぐさま撃ち殺されるのである。もしスーパーマンであり、抜群の実力をもつ者としては、それこそ慎重にかつ機敏に行動しないとすぐさま抹殺されてしまう。

 平凡な上司は部下に俊鋭がでてくると使うよりも恐れるし、同僚たちとは何かと足をすくおうということになりかねない。雪原を走る場合には、保護色という動物の知恵など大変参考になる。根回しとか日本社会特有の技法がそれである。
 それでも決断するときもあるが、そのときには普通の鉄砲ではとどかないよう脱兎の如きスビードで駆け抜けるか、または、用心して射程距離のはるか遠くを走ることなどいろいろの作戦を考えることだ。

 狭き門臍曲りすぎ入れない

 昇進、昇給などビジネス社会をのぼって行くと狭き門はますます狭くなる。企業トップに近づくほど絶望的になる。こうなると、少しでも臍曲りが目立って、とても入れてくれない。狭き門に入るには、それぞれの企業にはそれぞれの条件や規格があることだ。それをシカと見定めねばならない。
 表面的には衣裳や行儀をそれにあわすことも一つの方法である。といっても、実力や考え方までも変えてはどうかと思う。これからのはげしい競争社会では、ほんとうの実力が思わぬときに発揮される機会が来そうである。規格品だけではすまされないからだ。

 肩書きが重くて熱帯夜の頓死

 私はある大手商社の要職の方の葬儀に参列した。人生劇場の終幕が近づき、拍手喝采で閉幕し、今度は役員という最高の劇に出演する直前に倒れてしまった。まことに哀惜の限りである。
 御本人は人間ドックの診断の結果、どこも悪くないといわれ、いよいよはりきっていた。
 たまたま接待ゴルフに出かけた。帰りの車で狭心症に襲われたのであった。恐らく毎晩の宴席に出ていた疲労が蓄積されていたのだろう。

 心臓破りの丘でばてるエリート

 ビジネスマンにとって最大の幸福は何といっても健康である。課長から部長へと昇進するにつれ、肩書の重圧が加わってくる。自分の体力をよく考え、仕事とのバランスをとることこそ肝要である。

 天上大風 崖下で日向ぼこ

 ビジネス社会にはひと握りのトップ層と多数の部課長で組織されている。トップの座には大風が吹きすさび、孤独感がただよう。後継を狙う者の策略が暴風を呼ぶだろうし、権力保持のためには冷酷で仮借のない人事を断行せねばならない。

 鏡を見ているうちに鬼になる

 もしトップを志向する部課長があるとすれば、徹底的に鬼になりきる必要がある。表面は玲瀧たる人物だが、毎日鏡には鬼と化している。

 鏡を見ているうちに仏になる

 ところが、権力闘争でトップになれない人種は崖下で大風を避けながら日向ぽこをしている。この人種は天心爛漫で仏の顔になってくる。鬼になれないと悟ったら崖下で満足すべきである。鬼になりきれる自信家はよろしく天上大風をまともに受けなさい。

 以下は日本経済新聞夕刊(二月六日)の"鐘〃というコラムに掲載されたものです。(筆者)

 特急も普通も終着駅は雪
        (宮坂斗南房氏=「路同人」)

 人事異動の季節ーー。
 あなたの会社でもさぞやうわさに花が咲いていることと思います。
 このころになると"にわか人事部長"があちこちに登場、卓説を聞かせてくれるものです。
 本来"人事部長は解説をせず"が職務上の鉄則だそうですが、さる繊維大手メーカーの本物の人事部長さんが、「辞令の受け上手になれ」と忠告してくれました。いまの企業社会では受け手には拒否権はありません。となればどんな辞令も笑顔で快諾してみせるのがサラリーマンのミエやチエなのかも。
 出す側の論理といってしまえばそれまでですが、会社をやめる勇気と実力がない以上、ごねてみても結局は自分がみじめになるだけ、ともいえます。

 受け手にそれだけの覚悟が必要とあって、出し手もそれなりに神経を使うようでーー。
 この会社では、社長が異動部長と個別に会い励ますという美風をやめてしまった。えらい人はとかく忙しい身、たまたま会えなかった部長さんも出てくるわけで、そうなると、その事実がおかしな意味を持ってひとり歩きしてしまうからだそうです。

 「元部長が元課長に使われるのが当り前になる」(斎藤英四郎新日本製鉄社長=日経産業新聞「加齢への挑戦」)
 高齢化社会がやってきています。大手商社の役員になる寸前、子会社へ転出した斗南房さんは、宮仕えの哀感は笑いに転化すべきと考えビジネス川柳を始めました。

 


卒業25周年記念アルバムより