7組 宮崎 静二 |
昭和十六年八月三日 日曜 晴 . 『旅行について。太平洋クラブに入って、泰、仏印に行かうと思った。始め人員の関係で南印班になったが、泰、仏印班に欠員が一人出来て、その後に入れて貰ふ。 二年横田、村田、一年宇治田と四名である。この他に第一班鴨田、南川、第三班小林、新谷の四名は六月廿七日出発、自分等は七月十五日発積りで準備を整へた。仏印に対する査証、大蔵省の許可、外務省の諒解、書類の提出も終ったのに、突然文部省の横槍で、遂に旅行取止めとなる。始め外務省で、文部省の許可がないと旅券は出さぬと云ふので、文部省へ行くと役人曰く、学生が来ても分らん、学生課長に来いと云へと。 太刀川さんの所へ事情を云った所、文部省からの嫌味がこちらへ当って来て、太平洋クラブをツーリスト・ビユーローと勘違ひしている奴がいるとか、自分の研究調査題目とゼミーナルの研究と全く無関係ではないか等、相当当り散らされて、いささか面喰った。 文部省からの通牒で駄目と決ってから、七月十七日になって急に府庁から旅券をとりに来い云ふ手紙、横田と一緒に行って見ると、旅券は一週間も前に下りていると云ふ。このまま旅券を貰って、そつと出かけてもいいわけであるが、それではあんまりと思って、一応学校と相談したり、学長の家に話しに行った。 その日の午前中、兄が出征するからすぐ帰れとの電報を受取ったので、後事は横田に委せて帰る。数日後横田より電報あり、旅行全部取止めと。この他甲子園の野球、各学校の対外試合も皆差止めらる。理由は、文部省の言分では国際情勢険悪の為だとの事であるが、外務省では泰、仏印は大丈夫だと云ふ。文部、外務の連絡が全くとれていないのである。』 これは丁度四十年前の今頃のことを記した日記の一部である。 日記とはいっても、毎日克明に書いたものではなく、三ヶ月おき位に前三ヶ月の出来事や想出を書きなぐった、謂わば不精者の覚え書きである。昭和廿年六月末、軍務で在勤していた岡山は大空襲を受けたが、宿所から避難する際、庭の池に沈めておいた行李だけが焼残って、中の日記も無事を得た。 最近家の納戸から探し出したのであるが、表装の布張りは完全に紙からはがれて了っている。背中の全文字が薄く残って、遠保栄我記(おぼえがき)と読める。 日記の文章は、どうも誰彼から意地悪をされたり、当り散らされたりしたように書いているが、実は事の不首尾に対する憤懣から、私自身が八つ当りをしていたように思う。懐かしい想出である。 |
卒業25周年記念アルバムより |