7組  (山田さかえ)

 

 梅雨期を迎えすべてのものが霧雨に濡れる中であじさいの花のみが美しく明るい気持にさせてくれます。先日送付下さいました通信ゆっくりと拝見させていただき居ります。皆様の母校愛をはじめ亡き友におよせいただきます温かいお心のもとに記念事業の一つとして第三回合同慰霊祭の御予定なども存じ上げました。

 省りみますとき一、二、再度にわたりこの様な御高配のお催しを賜り居りますのに、物故者遺族の一員としてその都度せっかくのお心遣にもおこたえすることも致しませず、今日に至り居りますこと常々誠に申訳けなく心苦しく存じおります。

 今更望みかなわぬことでございますが、もし母が存命でありますならば……。かえらぬたわごとに等しくございましょうとも一堂に会されます息子の御友人御友情の中で御一読させていただき在りし日のことなどお話し申し居る母の姿も……との思いに私はなります。
 私の記憶のフィルムにありますものがせめて消えませんまでに、亡き母に代りましてのおもいにかられこの機にペン執る次第でございます。

 私ども姉弟は自営商家に育ちました。小学校低学年の弟は担任先生より「何でもトップだがいたずらも又その通り……で」と云われるわんばくでございました。

 小学六年卒業に際し父は弟に「成績はよくてもかならず家業はついでほしい。高校(旧制)などへ進むことは考えぬように」で神戸県立商業に入りました。田舎町よりの進学で神戸の生徒は初等英語を習っての入学、弟はそのため入学当初は22番、二学期でトップ、神戸市の招待で満州旅行アジア号の思い出アルバムもございます。

 丁度二学年七月、街の一区一隅のみが山奥貯水池の決潰と云う予想だもしない大惨事が起り我が家は災害の中心となり、激流直撃、父の死、家屋流失、私と母はうずまく濁流にのまれ流れる中で九死に一生を得ました。
 弟は登校中で幸い難をまぬがれましたのです。一瞬にして失いましたものの大きさ。川原になりました屋敷跡に父の愛用のヴァイオリンの指あとのある破片、ラッコ襟のマント、めがねなど遺品としてみつかりました。のちに弟は東京でそれを愛用して居りました。(東京にいた頃は私はその頃はすでに良人の任地九州にいました)
 水害のその夜仮住居で母は申しました。「生活、学業、家屋、等の再建再興には充分に残されているので安心して明日の将来の事を考えて、失ったこと、去ったことは考えないで」と。四十二歳でした。まだ少年後期の弟は一家の主としての座の重責をかみしめたのでございます。
 将来について弟はハッキリと申しました。
   一、最高学府に進ませてほしい
   二、家屋は店舗様式にしないこと

 いよいよ次の進学に備え普通校とのハンディを補う努力は厳しいスケジュールに一貫して実行、母と私もそれに合せての日課、親子三人父はなくとも木の香の新しい広々とした家での将来めざしての新しい暮しは幸せ平和でございました。

 五時起床、屋上での体操乾布まさつ、朝食はゆっくりと朝刊に目を通し、(神戸上筒井までの通学)六時家を出ます。何時もコツコツ同じ歩調で十五分要し、弟が改札口に到達と同時に発車合図の駅長さんの笛が鳴る。人さまがよく「山田さんは時計の代りする」と。
 通学片道二時間を要しましたが一日の遅刻もなかったと母へ学校からの言葉をいただきました。下校後も又本人が洗面所に居る内にテーブルのお皿にのせた果物を、それを夕刊をみながら・・・・・。
 檜の木のブンブンする湯に浸りつつ……朗々と歌って夕食のあと十時まで学校よりの外国語など勉強をし、十時就床。
 端然と座している姿は今も目にみえるようです。高商(現神商大)に進みましてより新築二、三年の今の家を他人様に貸しまして母は息子の学ぶところについて移り住み今様で申せば「教育ママ」でございました。東京荻窪に住み皆様との学校生活。父なきあとの人生の中で一番平和で幸福な希望に燃えている母と息子でありましたでしょう。
 丁度日米学生会議長の弟がこの三木の映画館でニュースの中で映写し出されましたのも思い出の一つでございましょう(テレピなき時代のことで町の人の噂さになりました)

 あの時代の青年としてやはり来るべきものが来ましたのは外務省に入り研修の一つとして伊勢神宮の参拝旅行の時でございました。今まで述べました母と子で越し来たり重ね積みし長き長き歳月、やうやくにして訪れました息子の社会への独立第一歩ですべてが根底よりくつがえりました。

 ふるさとの氏神様の社頭で出征のごあいさつを故郷の方々の前でしました。厳寒の中を主計幹候とかで新京へとばされました。悪条件は弟の体調をくるわせやがて病床の身は内地へ。そして転々と療養生活。弁護士をしていた伯父の善意からのアドバイスで兵役免除申請、すぐに許可となりましたがそのすぐあとに終戦となりその後に於ける母と息子に決定的不幸もたらす要因となりました。召集令で征きましたのに戦病と云う恩典ははがされて一市民として白い小さい箱になって帰りひそかにに母の手で葬儀と云う結末でございます。

 いささか話は前後いたしますが、入院中の弟は、家族をおもい少しの泣きごとも無理も云わず病院の職員、他の入院中の人の御親族の人々からもよくほめていただいていました。
 再起不能最期近きを知りつつも英文書籍をベッドで手にしている姿もみる者をして一入胸痛む悲しいことでございました。亡くなります数日前死んでいく本人の口から「今日の回診は特別に丹念に足を押えられたと思う。これは余命一、二日と覚悟をして下さい。」
 冷静にありますだけに聞く方のつらさはとても筆や言葉にはなりません。更に申しましたこと「どんなにお母さんつらく悲しくとも一緒に死ぬことは出来ないのです。姉もいる本家もある心を平静に……」
 続いて「忘れぬように遺骨箱を包む白い布を買うのに衣料切符を必要としますからその準備を」(当時はそうでした)
 一家の責務を心に銘肝して来た弟が必死の思いこめての母との対話でしょう。その翌日台風でガラス戸が音を立てているその夜亡くなりました。ドシャ降りが悲しみをそそりました。

 死の直前意識あるやなきやの中で「セイトンセイトンハヤクセイリセイリ……」。あの少年時代より二八歳までのこの姿勢弟らしい臨終の言葉かと考えます。