7組  鷲尾 節夫

 

 わが郷土の友倉垣君が、記念文集を編集するから一筆書いてほしいと、訪ねて来られた。ここで、わたくしはふと思いついた。齢既に六十二歳、幸にして子供二人とも一応一本立ちした。今は老妻と二人で、平々凡々の日を送っている。今迄は全くあわただしい毎日であった。生来無精者であったので、日記もつけていない。今ここで何か書いておかぬと悦惚の人になってからは記憶もたどたどしい。誰の為でもない。自分の為にわが一代記を記憶をたどって書いてみる気になった。

 私の故郷はでかんしょ節で有名になった丹波篠山であり、昭和十一年三月笈を負って花の東京へ出て来た。東京商大附属商学専門部という処へ入学したわけである。
 田舎者が一人で東京へ出て来て最初に困ったのは東京弁がわからぬ事であった。みんなが利口そうに見える。こんな連中についてゆけるかなと内心不安でもあった。しかしあの当時はまだよき時代で、人も親切だったし、学生という者に対し社会的信用もあったような気がする。

 国立という場所ものんびりして、大学の外には、エピキュール、万宝堂書店、国立ホテル、一橋館という下宿、玉突屋が二軒、ぐらいのもので国立通りの右側が本科で、反側に専門部があった。学校も公園のようにきれいであった。学園はわれわれの心の故郷であり、青春時代の憩の場でもあった。専門部の三年間、森永孟士君、橋本八十彦君、塩村君、菅沼君、金子君みんな三組で同じクラスであった。

 昭和十二年に支那事変がはじまった。だんだん統制がきびしくなった。三年生の頃に学生狩りというのがあった。昼間授業さぼって麻雀をしていると、府中警察がトラックをもって来てつかまえて行った。私も東大の友人と本郷で飲んでいたら、未青年飲酒ということで本富士警察へつれてゆかれ、留置場の廊下に立された。五十八人程入って来た。署長の訓示を受けて、十一時頃解放され、無精に腹の立った記憶がある。でもよき時代であった。

 本科に入ってから戦争は更に拡大、昭和十六年夏休を終って帰京したら、ゼミの常盤先生より卒業論文を書け、お前達は十二月卒業だという話、いよいよ事態が急迫しているのだ、商大の学生は十二月八日に淀橋区役所で徴兵検査をやるから午前七時集合という事だった。まさかその日に大東亜戦争がはじまるとは知らないわれわれは、区役所ではじめて軍艦マーチ、ハワイ沖海戦の勝利を知った。

 ともかくわれわれは十二月に卒業。現役の人は二月に出征して行った。私は三菱商事へ入社内定していたので、一月七日入社した。農産部に配属がきまり、それから男子社員はどんどん出征した。私も昭和十八年十月神戸の高射砲隊に召集された。数ヶ月して小平の経理学校へ送られ、久方ぶりに懐しい国立へも時時行くことが出来た。昭和十九年末に経理学校を卒業して見習士官のまま八月十五日にあっけなく終戦となった。

 それから終戦後の苦悩がはじまる。今の若い人々には終戦後の日本人はどんなであったか、戦争というものはどんなものか、国家というものは戦争をさけて通れないものか、今一度考えていただきたい気がする。国のない民族のみじめさは歴史が示している。敗戦の苦しさは経験しないとわからない。戦争を知らない国民に正しいこの歴史を充分におしえておく必要がある。

 昭和二十二年七月突如としてマッカーサー指令に依って、三菱商事、三井物産は解散を命じられた。東京は焼野原、国民全体が今後をどうしようかと迷っている時に、会社は解散となり、野に放出された。とりあえず一九万五千円の資本金の明光商事という商事会社を設立し、糊口を凌いだ。戦後のインフレというものの恐しさを身を以て体験した。生活も苦しかったが、みんなの力で順調に伸びて、昭和二十九年七月再び三菱商事が再発足した。これまでの七年間は私の一生で最も苦しい時だったと思う。しかし幸にして若かった。やはり若い事は何でも出来るという自信を植付けてくれた。

 昭和三十一年十月アメリカに渡った。東京ーシスコ間二十四時間の飛行機の旅であった。シスコ、ロスを見て紐育に着いた。どうしてこんな大きな、豊な国と戦争をしたのだろうか。果して勝てる自信があったのだろうか。当時の日本人がアメリカの実情をよく知らなかったのではないだろうか、と痛感した。

 それから渡米七年間、あらゆる技術を導入することに専念した。その技術が今日の日本をあらしめたものであろう、今の対米自動車問題がおきるなど、誰も想像もしなかった。

 終戦後三十五年、吾国がここまで経済大国にのし上るなど、アメリカ人も信じられないと思う。

 昭和四十二年又もや社命により、豪州へ赴任した。みなさんも御存知の通り、豪州は羊毛と農産物の国である。ところがその時分より豪州の資源開発が米欧人に依って行われ、その供給先は日本であった。一躍にして日本は豪州の最大の顧客になった。豪州人も日本という国を認識しはじめた。
 この原料に依って、日本は高度成長をなしとげた。完全に戦後は終った。
 しかし思想的には、われわれが若かかりし頃想像もしなかった混乱時代に入った。外国人ですらびっくりした。一体日本はどの方向に進むだろうかと疑ったほどだった。

 昭和四十九年十二月再びソウル駐在を命ぜられ、日本に最も近い外国であり而も思想的には最も遠いといわれる国へ出発した。当時の韓国は朴独裁時代で、工業化に依って日本に追付けのスローガンのもとに国民一致して努力をしていた。この経済力強化に依り北鮮との戦に優位をしめ、中進国の優等生と云われていた。しかし昭和五十二年頃より、この急速な工業化のひづみが出て、インフレの促進、輸出不振、国内不況の三重苦で国民が苦しみはじめ、朴大統領暗殺という事件と共に韓国は依然として、苦境に立っている。

 韓国という国の歴史を見る時に、ある時には支那大陸より、又ある時は日本より攻撃を受け、韓民族は貧困の連続であった。最近まで三十六年間、日本の統治下にあって決して幸福であったとは云えぬ。むしろ日本に対し深い深い恨みをもっているように感じられる。表面上は友好国であり、又日本の協力なくして韓国の発展もない事は充分承知している。しかしどうしても心より打解けない感じをもっている。

 昭和五十三年韓国より帰って、日本で生活してみると、景気の好況不況はあっても、何と日本という国は安泰なんだろうと、ひしひし肌に感じる。日本という国は武力もなし、アメリカの傘の下に、経済の繁栄に酔っている。こんな事がいつまでも許されるだろうかと心配になる。

 わが人生も、戦後の数年をのぞいては、貧しい乍ら安泰であった。日本人であることが幸福であったと思う。
 之から何年生きられるかわからぬが、十二月クラブの一員として、よき友達に恵れ、会社でもよき仲間に恵れた事が、私の人生をたのしいものにしてくれた事を深く感謝している。

 学校を卒業して四十年、今から考えると四十年という長さが全く感じられない。しかし時間を追って大変化を書いたわけで、紙面がなくなってしまった。又何かの機会に続篇を書いておこう。
 人間の一生というものは、こんなものなのかなと考えると、聊かあっけない気もする。忘却という現象のなせる業かも知れぬが、わが青春に悔なしとは、いえない気もする。しかしわれまだ生きている。残った人生をどう生きてゆこうかと、迷っているのかも知れぬ。
 国立の池のほとりの芝生の上にねそべって、友と夢を追いし幸福を思い浮べつつ・・・

 




卒業25周年記念アルバムより