7組  澹 台 燕 翔

 

 「家が貧乏で大学卒業とは不思議だ」と疑われて、とうとう「文革」のときに家宅捜索の上「打倒」される破目になったのは、つい十五年前のことである。今から五〇年ほど前の中国において、貧乏人の息子が十七年間も旧制教育をうけ、日本一流の国立大学を卒業できたということは、一寸考えられないことで、したがってそう疑われるのも至極当然のことかもしれたい。
 しかし、それが私の場合になると、すべて事実であって、なんら疑う余地のないことだ。

 一九二四年(大正十三年)、疲弊した山東省逢莱県の片田舎を後に、母につれられて父を捜しに東北の長春に行ったところ、図らずもくつ屋に勤めていた父が失業したため、母と妹が針仕事をして一家四人の生計を支えるなかを、私が満鉄経営の小学校に入ったのは、十二の時だった。「生きていくためにどうしてもいい成績をあげなければならない。」と、けん命に勉強した甲斐があって、優等生で卒業すると、十個の小学校に一人という進学補助費を満鉄本社から月に十円もらって、夢にまで求めていた旅順第二中学に入学できたことは、全く幸運だったというほかはない。

 中学では、当然のことながら必死になって勉学にはげむこと五星霜、ついに総平均九十五点という優秀な成績をあげ、トップで卒業したにもかかわらず、家庭生活の必要からどうしても就職しなければならず、止むをえず中銀(満州中央銀行)に入ったのである。

 実社会に出て初めて、人間社会の複雑性に目覚めた私は、是非日本内地へ行って勉強してこなければならないと決意をかため、人並にセビロは着ず、ずっと学生服姿でがんばりつづけた。一年後に、補助費(月四十五円)留学試験を受けてパス、銀行からも月二十円もらって、あこがれの東京商大専門部を志望して東京についたのは、二・二六事件の直後、一九三六年(昭和十一年)の三月だった。

 東京商科大学は、栄えある伝統をもつ日本最高の経済学府で、商学の殿堂、自由な学園として内外に知られ、学生はみな全国から集ってきた秀才ばかり、その実力や頭のよさに敬服した次第である。
 私は自由の伝統をもつ一橋の学風を身につけるべく、一年生のときは中和寮に入って寮生活を味わい、夏休みは千葉にあった東京商大の富浦臨海寮で過したが、一度危うくおぼれそうになったことがある。
 ある日の夕方、海に浮べていた飛台の縄が切れて、台がいつのまにか沖の方へ流されていた。飛台の上にいい気持で寝そべっていた僕は気がついてびっくり、早速飛び下りて泳ぎだした。ところが、遠泳に相当自信はあったものの、潮の流れでうねりが高く、疲れたせいか、一向前進できず、いよいよ心ぼそくなってきた。「はるばる東京にやってきて、ここでおぼれ死ぬとは……」と仰向けになって観念したほどだった。遠泳三〇度の姿勢で遠く浜辺の方を眺めると、みんなが集合して立ったままこちらの方ばかり見ているようだった。私は無意識のうちに片手をあげて合図をした。すると岸の方から水泳部の連中が三人飛ぶようにクロールでやってきて、ぐるっと僕を取り囲み、「あわてるな、みんながいるから大丈夫だ。体を休ませてゆっくり西の方に寄っていこう。もうすぐだ」と声をかけながら力をつけてくれたお蔭で、やっと命拾いをしたのである。実に危なかった。

 専門部三年間、クラスチャン対抗試合の球技では、小生が相当活躍(?)した方だが、杉本栄一先生の原論、鬼頭仁三郎先生の銀行及金融、上原専禄先生の商業政策、井藤半弥先生の財政学などの講義に傾倒したほか、一番悩まされたのは村瀬玄先生の簿記だった。
 しかし簿記会計は商業経済学徒として身につけなければならぬ科目なるゆえ、三年生のとき、村瀬ゼミに入れてもらって専攻したほどだ。中野にあった先生のお宅では、夜九時過ぎて、ゼミも終わり、みんながほっと一息ついて帰りかける頃になると、いつものように先生から「台君、どうだ、一場(イーチャン)やるか」といわれて、一週に一回お好きなマージャンのおつきあいをしたものである。

 私は最初三年位で中銀に帰る積りだったが、自由の伝統に輝く一橋の学風に魅了され、諸般の事情から考えて、もっと落ちついて勉強したくなり、学部に入る決意をした。
 東京商大学部は、予科から直接上ってくる学生のほか、毎年全国の高商からきびしい入試で百名ほど入れていたが、その年、専門部からたしかに二十七名以上合格したように覚えている。専門部切っての秀才柳井孟士君(旧姓森永)を頭とする鵬心会の三組から一番多く入っているが、わが雄飛会の四組はほとんどみな就職してしまって、学部に入ってきたのは小生のほか、勉強家でクラスではおとなしいぼっちゃん(失敬)だった木村久雄君だけだった。

 学部に入ると、一橋独自のゼミナールで学ぶことになるが、授業のないときなど、専門部の連中は申し合わせたように、よく金魚池のほとりに集って話に花を咲かせたものだ。
 山ロゼミには卓球の名人専門部二組の秋元茂君が入っていたので、二人とも卓球部に引っばられて裸になって練習したこともあるが、学問の方は故池田武雄君と吉祥寺の春日園アパートやお宅で、フラートンの原書をかじりながら、銀行主義だ、いや通貨主義だと、分かっても判らなくても、とにかく議論だけはした。

 私は学部三年間、学資支弁のため働き、実社会と結びつけて広く財界と接触しえたことを有難いと思っている。とりわけ一橋の大先輩で当時正金銀行調査部次長をしていた守田藤之助様(明治四十二年?)のお宅で、わが家のように御厄介になったことは記憶を新たにするものである。為替金融を中心とした日本の政治経済への批判から、それと結びつけて東京高商時代の申西事件の体験談や籠城事件など、一橋を守り抜いた輝かしい歴史を憤りをこめて詳しく聞かせて下さった先輩の母校愛に深く感銘を受けた。
 今日、世界第二の経済大国として発展してきた日本の経済は、商学の殿堂、自由な学園として、伝統に輝く総合大学にまで発展してきた一橋大学の存在を抜きにしては語れないと確信する。

 私は東京商科大学で学びえたことを、無上の光栄だと思っている。卒業してから四〇年になるが、いついかなる場合においても、一橋時代の生活を思うと、いつも母校の姿が浮んできて、慈愛に満ちた恩師山口先生の温顔と学友諸兄の篤き友情に力と幸福感を覚え、ほんとうになつかしく感慨無量である。

 翻訳の仕事に携わってから、十七年になるが、日本のみなさまに中国の経済事情を紹介する積りで、最近、薛暮橋著『中国社会主義経済問題研究』を一気に訳してしまいました。
 三十年らいの中国の経済には自分が身を以て実践してきたことであるだけに、わりにスムースにできて、ほっとしたわけだが、日本のみなさまが中国経済を理解するのに少しでも役に立つところがあれば幸いである。この日本語訳を出版するに及んで、日本における中国経済研究の最高峯、母校一橋大学教授石川滋先生がわざわざ『世界経済評論』七月号に書評をお書き下さり、しかもそれが巻頭に掲載されたことは私の最も光栄とするところである。
 これもひとえに世界経済研究協会専務理事、『世界経済評論』編集長、大学同期の韮沢嘉雄君の温い友情によるものであって、ここに特記して、衷心より謝意を表する次第である。